「激しい意見の対立と論争」
~神の救いと、信仰のそのかたちと~
使徒言行録15章1~5節、讃美歌387、493
1 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。2 それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。3 さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。4 エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。5 ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
イザヤ書55章8~11節
8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。9 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。10 雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。
■本論
パウロたちの第一次伝道旅行が終わりまして、前回にお読みした、14章28節に、「そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした」とありました。
その「しばらくの間」に「エルサレムの使徒会議」、いわゆる「エルサレム会議」が開催されることになります。
教会は何か疑問が生じる、あるいは乗り越えなければいけない問題が起きたら、会議を開く、その会議に聖霊が注がれることを祈る、その会議において決断していく。
それはもう、この最初の時代からそうなわけです。
西暦にしますと、およそ49年頃です。イエス様の十字架から20年が経とうとしています。そのときに、イエス・キリストの救い、福音とはいかなるものであるかが、改めて問われることになります。
その重大な判断を、教会は、十二使徒だけで、エルサレムの教会だけでなす、ということをしませんでした。パウロたちも加わった、会議をする。それが、今日、お読みした次のところ、6節、「そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった」ということで開催されたエルサレム会議です。
今日、お読みしたところには、その会議が必要となった経緯が記されていました。
何が問題とされたのか、その所在を押さえることに集中したいと思います。
1節です。ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
「ある人々」という、エルサレムの教会からやって来た人たちがありました。
パウロたちの伝道旅行、またその報告会でなした情報がエルサレムの教会にも届いたということなんでしょう。そして、その「ある人々」が言うには異邦人世界にキリストの教会が立つのは結構なことだと。が、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」。
割礼を受けるというのは、ユダヤ人になるということです。
つまり、イエス・キリストを信じることは結構なことだと。けれども、それはユダヤ人でなければ意味がありませんよ、というのが「ある人々」の言うことです。
つまり、キリスト者になるためには先に、ユダヤ人になっていなければいけない。
キリスト者が救いの最終形態だとして、一足飛びに、異邦人がキリスト者になることはできない。段階を踏まなければいけない。
先週に引き続いて、変なたとえを言いますけれども、ポケモンは「進化」という過程を経ながら強くなります。ポケモンの中には一回の「進化」で最終形態になるものもいれば、2段階ぐらいの「進化」を必要とするものもあります。そのときに、「進化」を飛ばすことはできません。手順を踏まないといけないんです。一回「進化」して、そのうえで、もう一回「進化」しないといけない。一足飛びにはいきません。
ここで、「ある人々」が言うこともそういうことなんです。
イエスがキリスト、救い主だと言うのは、その通りだと。
しかし、その救いはユダヤ人に与えられる者だから、割礼を受けて、ユダヤ人になって、その共同体の中に生きて、その共同体の中で律法を守って、そういう人間に初めて、救い主を信じる資格が与えられるわけでして、その過程を全部すっとばして、イエス様を信じるというだけで、救いの民だというのは、都合が良すぎる。
それが、「ある人々」が持つ信仰の感覚でした。
理屈としては分からなくはない。救いが神の民に与えられるものであるならば、ひと度、神の民として、ふさわしくあらねばならない。それが、「ある人々」にとりましては、割礼を受けて、ユダヤ人になる、ということでした。
この理屈は、ある面では、神学的な筋が通っていると言えなくもない。
もちろん、パウロは後に、その手紙において明瞭に指示してくれています。
割礼を受けてユダヤ人になるというんだけれども、律法を守ってユダヤ人になるというんだけれども、では、本当の意味で、神の御前に正しいユダヤ人になれるのか、神が望む神の民になれるのか。聖書が言うように、正しい人はいない。一人もいない。誰も本当の意味でユダヤ人にはなれない。ならば、そもそも一度、ユダヤ人になって、その後でキリスト者になって、という段階を踏むなんてことがありえないわけでして、
誰も段階をふめないわけでして、ならば割礼もその意味を失うわけでして、神の御前にはみんな等しく、罪人であるわけでして、唯一、真実なものがあるとするならば、それは人間を救う神の御心だけでして、その愛だけでして、人が救われるのは、神が与えられるイエス・キリストへの信仰だけだと、そういうことになるわけです。
それが私たちの信仰ですけれども、「ある人々」という、この人たちが言うことも、神学的な筋としては通っています。
そして、非常に興味深いことは、救いに割礼の有無が関係あるのか、ユダヤ人になるかならないか、ということが関係あるのか、という極めて高度な神学的議論が、教会の営みの、どういうところで、目に見えるかたちになるか、ということです。
さあ、議論しましょうといって、議論することはないんです。
だいたい、いつも問題になるのは、食事の場面です。
何を食べるのか、一緒に食事をするのかどうか。
とりわけ、キリスト者にとって食事には、重要な意味がありました。
つまり、キリスト者の集いの原点には、パンを裂くという、イエス様のご受難を思い起こす、ということがありました。
また、「アガペー」という愛餐会がありました。そこには文字通り、誰が来ても良い。どんな出自の人も、あるいはお金がない人も手ぶらで来ていい。神の愛を分かち合うという愛餐会が、キリスト者の集い、礼拝の中心にあるわけです。
そういう具体的な教会の営みのなかで、実は高度に神学的な議論を要するという問題が露わになっていきます。ですから、割礼を受けなければ救われないんだという議論は、この15章で、目新しくでてきたものではない。
使徒言行録11章に戻っていただけますでしょうか(新234頁)。
ペトロが、カイサリアという、「皇帝の町」という、非常にローマ色、異教的な雰囲気が強い町に住むコルネリウスというローマ兵の家を訪問して、一緒に食事をしたということが問題になっていました。11章3節、ペトロは非難されたんです、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」。
そのときにも、みんなで話し合って、ペトロは説明して、11章17節、ペトロはこう言ったんです。「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」
同じ賜物を受けている。神が一つになさることを、どうして私たちが切り分けることができるのか。
そのペトロの証しに、18節、この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。
そうしますと、15章を待たずとも、教会としては一度、結論を出していたとも言えます。つまり、神は、異邦人は異邦人のままで、イエスを信じることをおゆるしくださり、命を与えてくださった。神の民として生きる。永遠の命に活かしてくださる。
それが、教会の原理原則、基本方針となりました。
この基本方針があるので、アンティオキアの教会も、パウロとバルナバを伝道旅行に遣わすことができました。ですから、パウロたちにしてみれば一度、決めたではないかという、そういう感じであったかもしれません。
しかし、割礼がなければいけない、ユダヤ人でなければいけない、という問題は、当事者たちからしてみますと、体に染み込んでいた「真理」なわけです。
ずっと長い間、もう小さい頃から、そう教えられてきたわけです。
神の救いはユダヤ人のためのものだと。
それで、イエス様を信じるようになっても、体に染み込んでいることですから、そう簡単に変えられるものではない。救いは異邦人世界にも広がるんだと言われても、頭では何となくわかっていても、体がついていかない、ということがあります。
ですから、同じ問題が、繰り返し、教会のなかに起こります。
この辺りのところを、パウロがどのように見ていたのか。
使徒言行録15章と、少し時系列が不鮮明なところがありますけれども、ガラテヤの信徒への手紙2章11節以下に、これまた興味深い記述があります(約344頁)。
お開きいただけますでしょうか。
11 さて、ケファ(※ペトロのこと)がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。
アンティオキアの教会に、エルサレムからの問安団が来る前に、ペトロが先に訪ねていたようなんです。
そして、アンティオキアにいる異邦人とも楽しい交わりをもっていたようです。
けれども、そのときのペトロのある態度に、非難すべきところがあった。
それは、何かと言いますと、12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
ペトロは問安団が来るまではみんなと一緒に食事をしていたのに、問安団が来たら、一緒に食事をしている姿を見られるのを恐れて、すっと席を外そうとしたというんです。すると、13節、そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。みんな、ペトロ先生に影響されて、あげくの果てにはバルナバさえも、気を使いまして、別々に食事を取るようになってしまった。食事を別々にするということ
は、礼拝も別々にするということです、信仰生活を別々にするということです。
ペトロはカイサリアから帰って来たときに、同じ賜物を受けているんだと言っていたのに、そして、アンティオキアの教会でも一緒に食事をしていたのに、エルサレムからの問安団の目を恐れて、別々の食事を取る。
ペトロにして、身体の中に染み込んでいるというものがなおあったということです。
救いは一つであることを心では理解していながら、その中に生きていながら、ちょっとしたことがあると、体が反応してしまう。
やっぱり、ユダヤ人と異邦人は別々の者だと言う方に身体が流れていく。
それで、パウロに怒られてしまうわけです。
福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていない。
信仰と、その行動が、その身体がバラバラになっている。
こういうものですから、根が深いわけです。
それで、使徒言行録15章に戻りまして、「それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった」ということになるわけです。ガラテヤの信徒への手紙では、バルナバも別々に食事を取るようになったわけですけれども、パウロに怒られて、目が覚めたんでしょう、一緒にエルサレムに上ることになります。
3節、「さて、一行は教会の人々から送り出されて」とあります。つまり、パウロとバルナバたちは、アンティオキアの教会の代表として送り出されたということです。
異邦人がひと度、ユダヤ人になって、その後でキリスト者になる必要はない。
ただ、キリストの恵みによって救われるということは、パウロ個人の考えではない。
それはアンティオキアの教会の総意である。教会の告白である。
こういうふうに送り出してくれた、それがどれほど心強いことであったか。
だからこそ、続けて3節、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝えることができました、すると、その人たちも皆、大いに喜んでくれる。さらに、4節です、 エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎してくれた。アンティオキアの教会で起きた「激しい意見の対立と論争」は当然、問安団を通して、エルサレムの教会の人たちの耳にも届いていたはずですけれども、彼らはパウロたちを歓迎いたしました。アンティオキアの教会の代表団として、同じ兄弟として、丁重に迎えてくれるんです。
パウロ個人で行っていたら、そんなことはありえません。
しかし、教会の告白と、教会の告白とをすり合わせようとするわけですから、そこには互いに対する敬意というものが生まれたわけです。
パウロの方でも、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。
14章27節にあったのと同じ言葉遣いです。アンティオキアの教会に報告したのと同じように、何も憚ることなく、神が自分たちと共にいて行われたことを報告する。
神の御業を、エルサレムの教会の人たちへの敬意をもってそのままに報告する。
そうして、エルサレム会議が始まることになります。
最後に、イザヤ書55章の御言葉を思い起こし、終わります。
お聞きくださるだけで結構です。
9 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。
この朝は、キリストを信じながら、なおユダヤ人であることに強いこだわりを持つ人たちの信仰のかたちを見ました。その信仰は身体の中に染み込んでいるものでした。
容易に、変わるものではない。
同じ有様は、私たちにもあるかもしれないことを思わされます。
信仰の確信が強ければ強いほど、あるいはイエス様を信じる喜びに触れた経験を強く持っていれば持っているほど、そうではない信仰のかたちに触れたときに、それを受けとめられない、否定する、自分のかたちに合わせようとする、ということが起こります。わたし自身が、その心当たりがあります。
わたし自身のなかに染み込んでいるものがあります。
それ自体が、必ずしも、悪いものではないとも思います。
その染み込んでいるものに、励まされ、支えるということがあります。
しかし、だからこそ、イザヤの御言葉を心に刻みたいと願います。
神の思いは、私たちの思いを高く超えている。
わたしの信じていることが、わたしの信仰的経験がすべてではない。
神のなさることはいつも不思議で、いつも意外なものです。
神の思いは、高く超えている。この御言葉に謙虚でありたいと願います。
そうすれば、神はきっと見せてくださいます。
わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。
信仰の確信を強く持つことと、信仰の多様さを受けとめることは、矛盾しないはずです。神は救われるに値しない人間、わたしをもお救いくださったんですから。
神が成し遂げてくださるものを見る柔らかい信仰の眼差しを祈り求めます。
お祈りを致しましょう。