「神が自分たちと共にいてなされたこと」
~神が壊してくださる、私たちの心のなかにある壁~
使徒言行録14章21~28節
21 二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、22 弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。23 また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。24 それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、25 ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、26 そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。27 到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。28 そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。
イザヤ書49章1~6節
1 島々よ、わたしに聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び/母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。2 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き/わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して3 わたしに言われた/あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。4 わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。5 主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は6 こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
■本論
先週に引き続き、パウロの第一次宣教旅行の終わりの箇所をお読みしました。
デルベという町にまでたどり着きましたパウロ一行は、そのまま東に行けば、シリア州のアンティオキアに、すぐに戻れたにも関わらず、これまで進んできた道を戻っていく、訪れた街に戻っていく、そうしてアンティオキアに帰るというルートを選択いたしました。それは、22節、弟子たちを「力づけ」るためでした。
「力づけるἐπιστηρίζω」と訳されたところには、「支える、揺らがないように固定する」という意味のギリシア語が使われています。
何に、固定するかと言いますと、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」という「信仰」にでした。この信仰に固定する。
そこで言われている「苦しみ」とは、福音が届かない、という苦しみです。
最も愛する人に、そして自分が最も愛する福音が届かない、その苦しみです。
その苦しみは人を思えば思うほど、福音を愛すれは愛するほど大きくなるものです。
そこで、自分の無力さも思わされるわけです。
パウロは石を投げられもしました。
人を愛した結果が、殺意として返って来た。
暴力となって、暴言となって返って来た。
そういうことがありえる。イエス様の十字架がそうであったように。
けれども、それが神の道だとパウロは言うんです。
ちゃんと苦しんでいるということは、人を愛しているというしるしです。
ちゃんと苦しんでいるということは、福音を愛しているしるしです。
諦めたら、手放したら、苦しまなくて良い。
が、それは神の道ではない。諦めないのです。人も福音も諦めないんです。
イエス様の十字架がそうであったように。
わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない。
が、大丈夫なんです。神が諦めないので。罪人の頭である私たちのことをあきらめなかった神は、誰をもあきらめない。ですから、大丈夫なんです。
その神に信頼する信仰に、揺るがないように、弟子たちを結びつけるために、パウロたちは、来た道を戻っていく、訪れた街に戻っていくのでした。
そうして、一行は、26節、シリア州のアンティオキアに帰っていきます。
神の恵みにゆだねられて送り出された所、アンティオキアに帰っていきます。
そう、そこが、旅の出発点でした。
13章4節にありました。聖霊によって送り出されたバルナバとサウロ……。
伝道旅行は、神の恵みにゆだねられて、聖霊によって送り出され、導かれ、そうであるがゆえに、神の恵みを届けるものであった、聖霊を届けるものであった。
期間にすると、およそ2年から3年であったろうと言われます。
それほど長い期間ではない。が、その間に、アジア州、ガラテヤ州という、後に、ガラテヤの信徒への手紙を受け取ることになる町々に教会が起こされていく。
神の恵み、聖霊の御業を、パウロたち自身が経験していく旅がひとまず終わります。
それで、一行は、アンティオキアに帰っていくんです。
が、ふと思うことは、どうして、帰ったんだろうということです。
パウロの伝道旅行は、どうして、第一次、第二次、第三次があるのか。
その度に、アンティオキアに、またエルサレムに戻るのは大変です。
なのに、どうして、わざわざ戻るんだろうということです。
これは実は、現在も同じなんです。
日本にも、いろいろな国から来られた多くの宣教師の方がおられますけれども、基本的には、送り出されたところへ定期的に戻っておられます。
理由は大きく二つあります。
一つは、宣教師自身が守られるためです。
違う文化圏に入る。違う言語圏に入る。すると、ただ呼吸するだけで疲れます。
食べる物も違う。心も体も疲れます。
すると、判断力が鈍ります。鈍ると、良い働きはできません。
韓国でお会いした宣教師のことが、わたしの心にずっと残っています。
私たちの改革派教会と姉妹関係にある高神派の宣教本部でお会いした方です。
その宣教師は、キリスト教の伝道がゆるされていない国に遣わされている宣教師でした。その国で、宣教活動はできません。礼拝はできません。ふつうにお仕事をして、親しくなった人を家に招いて、日常会話のなかで福音を伝える、それだけです。
洗礼を授けることも、まして教会を建てることなど期待できません。
ただ、出会う人を愛し、福音の種をまくことだけです。
それだけでも命がけです。その人が通報したら、終わりですから。
その方とお話をしているときに、こう言われたんです。宣教師にとって一番大切なことは生き延びることだと、生き延びて韓国に戻ることだと、そうすると、そこから必ず神様が開いてくださる宣教の道があるんだと。
そのためにはいつも心と体と霊性とが健全に保たれていないといけないと。
非常に物静かな、道を歩いているだけでは、宣教師だと分からないような方でしたけれども、それだけにとても印象に残りました。とにかく生きてのびて、働きを続けること。その宣教師の心は、今、お読みしている使徒言行録にあらわされましたパウロからずっと続くものなのかもしれないとも思わされました。
そういう宣教師の方々のことを覚え、祈ることの大切さも思わされます。そのように、自分の心と体と霊性とを健全に保つために戻る、それが一つのことです。
もう一つのことは、自分を送り出してくれた教会に戻り、その恵みを分かち合うという、報告をするためです。証しをするためです。
伝道旅行は、神の恵みにゆだねられて、聖霊に送り出されたものですから、その導きに誠実に応えることができたのか、判断に過ちはなかったのか、罪はなかったのか、を報告する責任を、宣教師は担うことになります。
宣教師は現場に身を投ずることになりますから、当事者になります。
その行動が、その判断が妥当であるのか、自分ではわかりにくくなります。
ですから、戻って、報告して、その正当性を確認してもらう必要があります。
使徒言行録が特にする注目しているのは、その点です。
27節、到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。
この報告を、この証しを、するために、パウロはアンティオキアに戻りました。
「神が」と語っています。
聖霊が送り出してくださった旅ですから、「わたしが」と語るのではない。
それが、宣教師の報告です。
そこに、教会の、神に基づく一致と、神への祈りが生まれます。
わたしがこういうことをした、どういうことを成し遂げた。
そんなことはどうでも良いことです。
その「わたし」を、「神」がどのように用いられたのか。
教会の人が聞きたいのは、その点です。
「神が」という、「神」を主語とした現実の出来事を聞きたいんです。
パウロは言います。
「神が自分たちと共にいて行われたすべてのこと」。私たちが今、読んでいる使徒言行録はそのパウロの報告がもとになっているのかもしれません。
とりわけ13章以降に記された一つひとつの出来事は、神がパウロたちと共にいて、パウロを用いて、神がなしてくださったと報告したことが元になっているんでしょう。
そして、パウロが言う、神がなしてくださったこと、「神が自分たちと共にいて行われたすべてのこと」は、一つのことを物語っています。
それは、神が「異邦人に信仰の門を開いてくださった」ということです。
それがどれほど重要なこと、重大なことであったのか。
なかなか、私たちの想像が及ばないところがあります。
そのインパクトは、変なたとえですけれども、たとえば宇宙人がいて、その宇宙人に福音を届ける、宇宙人の言語で福音を届ける、信じる、宇宙人の教会ができる、何を言っているんだと思われるでしょうけれども、それぐらいの荒唐無稽さ、衝撃、インパクトが、とりわけユダヤ人のみに救いがある、と考えていた人たちにはあったことを想像してみてください。
パウロにしても、そうです。
当然、アンティオキアから遣わされるときに、異邦人世界に福音を届けに行く必要を覚えていました。そのために祈った。そして、聖霊に送り出された。
そのパウロにして、13章46節をご覧ください。明瞭に、「見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」と本当に自覚したのは、旅の中に身を置いてなんです。
苦労しながら、苦しみを身に負いながら、神が異邦人を愛しておられることを直に経験しながら、自分は異邦人のための使徒だという自覚を持つようになる。
復活のイエス様は最初からパウロを異邦人のための使徒だと召された(9:15)。
けれども、その召命が本当に自分のものになるのは、パウロが、異邦人世界に生きているユダヤ人に福音を届ける、ということがあって、です。
ユダヤ人にも、ギリシア人にも、誰であっても、神が招いておられる、ということは、パウロにしても、衝撃的なことであったわけです。
わたしたちにとって、宇宙人が、しかも地球を侵略する企てを持つ宇宙人が、悔い改めてイエス様を信じるというほどに、あり得ないお話なわけです。
ですから、アンティオキアに到着するとすぐに、教会の人を集めて、報告したんで
す。こうなると良いなと思って旅立ちました。送り出されました。
しかし、神は本当に、異邦人に信仰の門を開いてくださった。
その驚きを、まさに神の恵みを分かち合いたかった。
エフェソの信徒への手紙では、パウロは「隔ての壁」という表現をとっています。
ユダヤ人と異邦人・ギリシア人の間には、高くそびえる「隔ての壁」がある。
しかも、その壁は「敵意という隔ての壁」であると言います。
互いは違う者だと、交わるべきではないものだと、敵意を向けている。
が、キリストが御自分の肉において、すなわち十字架のご生涯において、その「隔ての壁」を取り壊してくださった。
実に、キリストはわたしたちの平和であります。
それが、エフェソの信徒への手紙の語るところです。
キリストが人間を隔てる敵意の壁を壊してくださった。
ということは、その壁を造り出していたのは人間だということになります。
神は門を閉じていないし、壁を造っていない。
造ったのは人間で、敵意をもって隣人を遠ざけて、狭い世界に閉じこもっている。
神は門を開くし、壁を壊す。
その神の国に、神が導かれる世界に、パウロは足を踏み入れたと、語るわけですけれども、その信仰が本当に妥当であるのかどうか、ちゃんと報告するんです。
信仰は独りよがりのものであってはいけない。
パウロにおいても、確かめもらう必要がありました。
神が「異邦人に信仰の門を開いてくださった」、その確信において、パウロがなしたことがあるからです。その正当性が確かめられなければいけません。
パウロが何を確かめてもらうのか。何を共に賛美するのか。
そのことが端的に記されているのが、23節で、パウロがなしたことです。
23節、また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。
そこに、「教会」という言葉がでてきました。
これまで、使徒言行録が「教会」と呼んだのは、エルサレムにある教会と、アンティオキアにある教会だけです。使徒たちのいるエルサレムの教会と、そのエルサレムから迫害のために逃げて行った人たちを主とするアンティオキアの教会、そういう教会を、使徒言行録は「教会」と記してきました。
そういう教会と、ベルゲやリストラ、イコニオンに起こされた、キリストを信じる群れは、本質的に同じであると、パウロは捉えたんです。異邦人世界のなかにある、異邦人を中心とした、キリストの共同体を、同じ「教会」と捉えました。
決して「教会」という建物があるわけではありません。十字架も立っていません。
その人たちが集まるのは、お家です。民家です。
町によっては六畳一間ほどのアパートなんてこともあります。
そんなことは全然、問題ではない。
「教会」は、神が呼び集められた人間、その共同体のことを言うからです。
民族、性別、出自関係なく、神が呼び集められた者たちの集い、それが教会です。
「教会」と訳されました、エクレシアというギリシア語は、公に呼び集められた群れ、召集された議会という意味を持ちます。
もともとは全然、宗教的な匂いのない言葉です。
それが、最初期のキリスト者たちの自覚でした。
自分たちは神に呼び集められて、今ここにいる。ここが「教会」であると。
パウロは、その教会が守られるように、「長老たち」を任命しました。
現在の意味での「長老」では必ずしもなかったかもしれません。
「長老」というギリシア語は、単に「年長者」という意味です。
やはり、そこに宗教的な匂いはありません。
が、一つの組織をつくった、ということは重要です。
誰もが、その集いに集えるように、次に、パウロが来るまでに、その集いがキリストの集いとして守られるように。
実際的な意味でも、エルサレムやアンティオキアにある共同体と変わらない教会であれるように。規模や人の多さではない。キリストの信仰に踏みとどまる、という点で、エルサレムの教会、アンティオキアの教会と変わらない教会であるために。
パウロは、教会を組織化いたしました。
この時点では、それほど大げさなものではありませんけれども、一人ひとりの信仰は共同体において守られる必要がある、そこに眼目があります。
異邦人世界に、キリストの教会が立つ、その是非を、パウロは分かち合いたかった。
そして、その願いは、この後に続く、エルサレム会議において叶えられます。
その会議もまた、神が導かれます。神は人間の誠実な問いを用いられます。
私たちもそうでしょう。
私たちもいつも、神を主語として、「神が」というふうに世界を見つめます。
それは決して、自分の主体的な責任を放棄することではありません。むしろ、逆に、「神が」と告白するがゆえに、神に用いられる自分の責任を自覚します。
その自覚のなかに、神は教会の一致を与えてくださいます。そして、神が、私たちを、私たちの教会を用いてくださるために祈りが与えられます。
お祈りいたしましょう。