「神と共に多くの苦しみを経る」
~信仰に導かれることと、信仰に踏みとどまることと~
21 二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、22 弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。23 また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。24 それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、25 ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、26 そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。27 到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。28 そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。
ダニエル書7章15~22節
15 わたしダニエルは大いに憂い、頭に浮かんだこの幻に悩まされた。16 そこに立っている人の一人に近づいてこれらのことの意味を尋ねると、彼はそれを説明し、解釈してくれた。17 「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。18 しかし、いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう。」19 更にわたしは、第四の獣について知りたいと思った。これは他の獣と異なって、非常に恐ろしく、鉄の歯と青銅のつめをもち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじったものである。20 その頭には十本の角があり、更に一本の角が生え出たので、十本の角のうち三本が抜け落ちた。その角には目があり、また、口もあって尊大なことを語った。これは、他の角よりも大きく見えた。21 見ていると、この角は聖者らと闘って勝ったが、22 やがて、「日の老いたる者」が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである。
■本論
使徒言行録の13章から読み進めてきました、パウロの第一次伝道旅行が終わるところを、今日、お読みいたしました。
それほど長い箇所ではありませんので、一回で終わる予定でしたけれども、準備をしているうちに、どうにもこうにも終わらないことに気づきまして、一回ずらして、次週も、同じ箇所から読むようにしたいと思います。
今日はほとんど、22節にあります、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」という御言葉に注目します。
有名な御言葉です。御言葉ですから、この文脈を外しても読んでも、それはそれで有益です。しかし、また言葉ですから、文脈を踏まえてこそ、という面があります。
今日は、この文脈に立ち止まって、この御言葉の真意を聞き取ります。つまり、ここでパウロが言う「苦しみ」は、どういう苦しみであるのか、ということです。
21節から見ていきます、「二人はこの町で福音を告げ知らせ」。
「この町」とありますのは、その前の20節の最後にありますデルベという町です。
デルベは必ずしも大きな町ではありませんでしたけれども、ちょうどこの町がガラテヤ州とキリキア州の州境となっていまして、税関なんかもありまして、多くの人が集まってくる場所であったようです。シナゴーグもありました。リストラは少し緊急避難的な意味合いがありましたけれども、デルベは、そうではなくて、もう、この町を目指して、着いた、ということなんだろうと思います。
が、デルベの町のことはほとんど何も記されていません。
それは悪いことではない。後に、パウロがテモテの手紙二3章11節に、アンティオキア、イコニオン、リストラで、迫害と苦難がふりかかってきた。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのですと記しているところがあります。パウロが迫害を受けた、と名前を挙げるのは、アンティオキア、イコニオン、リストラです。
デルベの名前は挙げていません。
パウロの伝道者としての生涯のなかでは非常に珍しい、非常に貴重な、穏やかな日々がデルベにはあったようなんです。この後、パウロの第三次伝道旅行で、パウロの助け手となりますガイオ(20:14)という人物もデルベの出身でして、そういう人も生み出されていく、非常に幸いな状況がデルベのパウロには与えられました。
ならば、そのままデルベに腰を落ち着けるという選択肢も、あったかと思うんですけれども、21節、二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返す、ということになります。
ちょっと聖書の巻末にある地図を開いていただけますでしょうか。
幾つかの地図がありますけれども、「7パウロの宣教旅行1」という地図です。
ちょうど真ん中あたりに、デルベという町があります。
伝道旅行の経路を記した点線の最終地点です。
そこから引き返したというんですけれども、本当であればと言いますか、デルベからもう少し東に、地図の右に行きますと、タルソスがあります。パウロの故郷です。
そこから、もう少し右に行きますと、スタート地点のアンティオキアがあります。
この伝道旅行は、バルナバの故郷でありましたキプロス島に行くことから始められました。そうすると、もしかすると、旅のゴールはパウロの故郷でありますタルソスに設定していたのではないかと想像いたします。
そこには大きな道が走ってもいます。そして、そのままアンティオキアに帰る。
そのルートの方が自然です。
実際に、第二次伝道旅行、第三次伝道旅行ではその道を使っています。地図の頁を一枚めくっていただくと、「8パウロの宣教旅行2,3」という地図があります。それを見ますと、アンティオキアから陸路で、デルベに行っています。
ですから、第一次伝道旅行も、最初の計画では、デルベからタルソスへ、そしてタルソスからアンティオキアへ、という経路であったのではないか。
しかし、このとき、パウロとバルナバ、その道を選択しませんでした。
リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返します。
何のためか。22節、弟子たちを力づけるためです。
パウロが種を蒔いて、立ち上がっていたキリストを信じる群れがあります。
キリストの福音を信じる共同体があります。そこに戻って、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と伝える。
信仰に踏みとどまるようにと励ます。
しかし、それは恐いですよね。自分たちに石を投げつけてきた人たちがいるんです。
殺意をぶつけてきた人たちがいるんです。
そういう町に戻るということは恐いことです。が、それよりも、パウロたちが恐れたことは、自分たちに殺意をぶつけてきた人たちと共に、愛する教会員がいる、ということです。あの人たちは、あの人たちの信仰は大丈夫だろうか、ということです。
あの人たちの信仰が崩れてしまうのではないか、それがパウロの一番の恐怖でした。
だから、引き返したんです。だから、戻ったんです。
ですから、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」とパウロが言うとき、まず、その「苦しみ」は、パウロ自身に、自分自身の身にふりかかる苦しみではありません。そうであれば、すぐにアンティオキアに帰っている。
そうではなくて、リストラ、イコニオン、アンティオキアに戻る。
その人たちと共にある苦しみですから、ここで言われる苦しみは、自分の身にふりかかる苦しみではなくて、人を思うときに生まれる「苦しみ」です。
その「苦しみ」にある幾つかの層を、聖書から辿ってみたいと思います。
最初に、今日、お読みした旧約聖書のダニエル書の箇所です。
もう一度、お開きいただけますでしょうか(旧1393頁)。
7章15節にありました。
わたしダニエルは大いに憂い、頭に浮かんだこの幻に悩まされた。
先週のエゼキエルと同じです。ダニエルも神様からのメッセージを「幻」というかたちで受け取るんですけれども、どうにもよく分からない。
私たちもよく分かりません。しかし、直前の13節には、「人の子」というイエス様が御自身のことを指すときに用いられた言葉もでてきますから、どうやら、このあたりは救いに関わる箇所であることは知らされています。
一つの点だけを見ます。21節、見ていると、この角は聖者らと闘って勝った。
「この角」と言いますのは、20節に「その角には目があり、また、口もあって尊大なことを語った」とありますように、自らが神であると、神を冒涜する為政者を象徴しています。この世の力、この世の論理と言い得ることができるでしょうか。
そういうこの世の力と言いましょうか、この世の理屈が、聖者らと、すなわち、神
を信じる信仰者と闘ったら、角の方が勝つ、信仰者は負けるんだというわけです。
どれほど立派な信仰者も一度は、いや、何度も、この世の理屈に負ける。
その後で、「やがて」という時を経て、「日の老いたる者」という父なる神の裁きがありまして、最終的には、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである。とありましたように、最終的な勝利は約束されているんですけれども、「やがて」という時がどれほど長いのか、地上の歩みにおいては勝利を味わうことはないかもしれない、そういう苦難の中に信仰者は置かれる、それがダニエル書の記すところです。
この御言葉には真実味があります。信仰者にはよく分かります。
信仰の歩みにはいつも敗北がつきまとっている。挫折がつきまとっている。
自分もそう。共に教会生活を送る人もそう。心に覚える大切な人もそう。
私たちの目にいつもつきまとうのは、自分もあの人は立派だなという信仰深い様よりも、全然ダメだな、という敗北する姿じゃないでしょうか。つまずく姿です。
ダニエル書は、そういう人間の姿をあらかじめとらえています。
このダニエル書の内実を、その奥義を、イエス様が教えてくださっています。
ルカによる福音書24章25節、26節を開いてください(新160頁)です。
十字架の後です。
エルサレムからエマオに二人の弟子たちが歩いていく、その二人にイエス様が近づいて、語りかけられるんですけれども、十字架のことで、イエス様が死んじゃったということで悲しみで一杯になっている二人は、全然、イエス様のことが分からない。
そこで、復活のイエス様が仰るんです。そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
ダニエル書が示した敗北を、イエス様も「人の子」として担われました。
その敗北を、イエス様は「こういう苦しみ」という言い方をなさいました。
パウロが「多くの苦しみ」と言いましたのは、このイエス様の「苦しみ」です。
どういう苦しみか。それは十字架の苦しみです。
十字架の苦しみは肉体的な苦しみだけではありません。最大の苦しみは、神の愛を最も伝えたい人に伝えられない、伝わらない、ということにあります。
この人に、神の偉大さを、神の素晴らしさを、神の愛を伝えたい、が、まったく伝わらない、届かない、この敗北感です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:24)
その敗北感をイエス様は十字架で味あわれた。
そして、復活なされてもなお味合われた。ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
福音が届かない、自分が最も大切にしていることがまったく伝わらない。
この世の理屈が勝つ。この世にある悲しみが勝つ。
そのような敗北を、復活のイエス様もまた身に負うてくださった。
このことを踏まえて、パウロは言っています。
「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」
最終的には神様がよくしてくださるんでしょう。神様が選び取られた者たちを、神様が愛された者たちを御許に引き寄せてくださるのでありましょう。
が、そこに至るまでに、多くの苦しみを経なくてはならない。
つまり、愛する人に、福音を伝えても伝えても、伝わらない。それどころか、伝えようとすればするほど、逆効果に、福音から遠ざかってしまう。
そういう「多くの苦しみを経なくてはならない」。
パウロは迫害によって、自分が身に負う苦難について、こういう言い方をしません。
そのような苦難には歯を食いしばる。あるいは、その場から離れる。
信仰者の苦しみは、自分の身にふりかかること以上に、大切な人が、神から遠ざかっているように見えることです。本当に遠ざかっているかどうかは分かりません。
けれども、そう見えることが、信仰者の苦しみです。
それは避けられない。「多くの苦しみを経なくてはならない」。
が、そこで、信仰に踏みとどまるように、パウロは戻る必要がありました。
力づけ、信仰に踏みとどまるように。
この言葉づかいも重要です。地の文ですから、ルカの言葉です。
明確に、ルカが意識している場面があります。
もう一度、ルカによる福音書をお開きください。22章32節です(154頁)。
最後の晩餐の席です。イエス様がペトロに語りかけておられます。
31節から。シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。やっぱり敗北するんです。ふるいにかけられる。信仰が粉々に吹き飛ぶ。互いの関係も吹き飛んで、方々散り散りになる。
しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
イエス様がペトロに語りかけた言葉です。兄弟たちを力づける。
パウロはパウロの仕方で立ち直って、弟子たちを力づける。
どう力づけるかと言いますと、イエス様があなたのために、信仰が無くならないように祈ってくださっています。この世の力は強い、福音は伝わらない、自分の信仰も心許ない、そういう敗北に打ちひしがれるあなたのために、もうダメだとあきらめるあなたのために、信仰が無くならないように、イエス様が祈ってくださってます。
それが、力づける、ということです。
そこで言われている「信仰」がどういうものかも見ておきましょう。
同じ頁の28節です。イエス様が弟子たち全員に仰った。
あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。ここに踏みとどまる、という言葉がでてきました。
しかし、不思議なイエス様の言葉なんです。
つまり、弟子たちが、イエス様が種々の試練に遭ったとき、絶えず一緒に踏みとどまった、なんて事実はないからです。そんなエピソードをルカは記していません。
その直前に、イエス様は、ここに裏切る者がいる、と仰ってもいます。
誰も、踏みとどまることはしてこなかったし、できなかった。
それでも、もし、踏みとどまったという言い方がゆるされるならば、それは、イエス様が離さなかったから、散り散りばらばらになって、でも、イエス様が近づいていかれたから、ああ、物分かりが悪く、心が鈍くと思われても、イエス様御自身が諦めなかったから、その場合にのみ、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれたということは成り立ち得ます。
ここで言われる信仰は、決して一般論として言われる、神を信じるということよりも、より具体的に、私たちが心に抱く、あの人のことを、イエス様は、神は手放さなさい、救いの中に置いておいてくださる、という信頼です。
今は物分かりが悪く、心も鈍い。全然、福音が伝わらない。苦しむ。
が、イエス様の祈りのなかにある、という信仰です。
リストラの人たちが、イコニオンの人たちが、アンティオキアの人たちが、あの人は物分かりが悪い、もうダメだと、諦めることがないように、イエス様は諦めておられないから、大丈夫だからという、そういう信仰に踏みとどまるように、パウロたちは力づけた、ということです。互いに失望しないために、諦めないためにです。
「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」。
それは本当のことです。けれども、またその苦しみには幸いがあります。
苦しむ限りにおいて、諦めていないということですから。
そして、その諦めていないということのなかに、神の、キリストの諦めていない御心が、本人の思いを越えて、映し出されているのですから。
人を思う苦しみには必ず、神の祝福があります。神様が何とかしてくださいます。
私たちの苦しみにはすべて意味がある。きっとそうなんですけれども、そのままに受け止められないこともあります。しかし、このことだけは確かに言えます。
人のために、人を思う苦しみには必ず、祝福が合って、多くの苦しみを経ているその只中に、既に神の国がもたらされています。
愛することで、愛し返されなくても、その役割は果たしています。
お祈りをいたしましょう。