「神御自身の証し」
~生ける神に立ち帰ること、偶像を拝むこと~
使徒言行録14章8~20節 讃美歌357、527
8 リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。9 この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、10 「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。11 群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。12 そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。13 町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。14 使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで15 言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。16 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。17 しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」18 こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。19 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。20 しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。
エゼキエル書1章26節~2章2節
26 生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。27 腰のように見えるところから上は、琥珀金が輝いているようにわたしには見えた。それは周りに燃えひろがる火のように見えた。腰のように見えるところから下は、火のように見え、周囲に光を放っていた。28 周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。1 彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」2 彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。
■本論
使徒言行録を読み進めてきまして、14章に入っています。
パウロは都合、三度、大きな伝道旅行をなしていますけれども、今、お読みしていますのは、その最初の、第一次伝道旅行の終盤に差し掛かろうとしているところです。
今日は、リストラという町での出来事です。
リストラは、パウロがここまで訪れた町とはまったく違います。
リストラは田舎です。この町にはシナゴーグもありませんでした。
ユダヤ人がまったくいなかったわけではない。この後、パウロの重要な同労者、助け手となるテモテは、このリストラにいた人です(16:1)。
しかし、シナゴーグがない。つまり、この町を目指してきたわけではなくて、緊急避難的に逃れる、身を隠すためにやってきたんです。
つまり、この前のところ、イコニオンという大きな町で、5節、異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとした……。石を投げつけようとした、ということは殺そうとしたということがあった。
それで、身を隠すために、パウロたちはリストラにやってきた。
が、今日、お読みした19節と20節にありますように、リストラでも騒ぎになりまして、今度は本当に石を投げられる、それがパウロにも当たって、もう死んでしまったかのようになる。ここまでも色々なことがあったんですけれども、本当に石を投げられる。殺されかける、明確な殺意を向けられるという、それは初めての経験でして、パウロは、体にはもちろんのこと、心にも大きな傷を負うことになります。
しかし、思い返してみますと、誰あろう、かつてパウロ自身が、キリスト者に石を投げつけるものであった。それが、復活のイエス様に出会って、罪を赦されて、福音を宣べ伝える人になって、今や、石を投げつけられる側になった。
パウロはどんな気持であったが。しかし、確かなことは、パウロは、そこで分かっていくんです。自分の罪の重大さが。どれだけ恐ろしいことをしていたのか、怒りを向けられる、そのときになって、怒りを向けることの重大さを。
その苦しさ。死んだようになる。立ち向かう気力も失われまして、弱くなる。
そのなかで、パウロは神の恵みの大きさ、赦されていることのありがたさを本当に身に染みて知らされていきました。後に、コリントの信徒への手紙二11章のなかに、パウロが、「死ぬような目に遭ったことも度々でした」と書いています。「石を投げつけられたことが一度」と本当の殺意を向けられたことの恐ろしさを記しています。リストラでのことでしょう。その先に、あの有名な御言葉が語られます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ、強いからです」。
自分が人に石を投げつけているときには、まるで自分が神様のようになって、人の間違いを正す良い気持ちに酔っていた。が、逆に、石を投げつけられるようになって、弱くなったときに、本当に神の恵みのありがたさが分かった。
それは苦しいけれども、幸せなことでもあります。
その意味において、このリストラで、パウロが初めて経験したことは、この後の苦
難と合わせて、神様の大きな、本当に大きな恵みへの、自分を愛し、赦してくださる神様の恵みに気づかされていく、そういう入り口となりました。
苦難は、そういう神の恵みへの入り口という役割を果たすことがあります。
そのようなリストラでのパウロの経験から、二つのことを学びたいと思います。
一つは、リストラには会堂・シナゴーグがない、ということに基づくものです。
シナゴーグがあるか、ないか。教会があるか、ないか。
そこには決定的な違いがあります。パウロがシナゴーグで、イエス様の福音を語る際には、そこに理解の差はあったとしましても、いずれも聖書を求める人たちがそこにいました。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、シナゴーグに来くる人は、聖書を読むために来ています。そこに何が書かれているのかを知りたいと思って来ています。
しかし、リストラには、シナゴーグがない。
それは、これまでのパウロの語り方、旧約聖書を開いて、ここにイエス様のことが書かれています、というやり方は、ちょっと通用しないということです。
そこで、しかし、パウロは極めて柔軟にと言いましょうか、懐深くと言いましょうか、神様の恵みを語っています。そこに一つ教えられたい。
使徒言行録の記述を追いかけてみましょう。
8節から。リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。福音書にも見られたような記述のタッチです。
イエス様も、体の不自由な人、目の見えない人、耳の聞こえない人、そういう人を癒すことで、救い主の到来を、神の国の到来を、あらわしていかれました。
そのイエス様の力が使徒たち・パウロにも託されていることを示す場面なんですけれども、それ以上に、ルカが注意を払っていることがあります。
9節。この人が、パウロの話すのを聞いていた。
パウロが宿泊していた家の門のところでしょうか、あるいは道端なんでしょうか、そこでパウロの語ることを、足の不自由な男はじっと聞いていた、というんです。
そして、その聞く姿勢をもって、パウロは「いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」たというんです。パウロは何も問いかけていません。信仰についての質問もしていない。ただ、男のじっと聞くという姿勢を見て、この人は、神様を信頼していると認める。いやいや、大丈夫でしょうか、と思うんですけれども。
重要な点は、この出来事に、パウロの話をじっと聞く男の姿に、使徒言行録は、旧約の預言者との重なりを見ている、ということです。
お開きにならなくて大丈夫です。聞いてください。
預言者エゼキエルが、神からの御心として、幻を見させられる場面です。
どういう幻か。生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。腰のように見えるところから上は、琥珀金が輝いているようにわ
たしには見えた。それは周りに燃えひろがる火のように見えた。腰のように見えるところから下は、火のように見え、周囲に光を放っていた。
お分かりになるでしょうか。理解するという点では非常に難しいと思います。
おそらく、エゼキエル自身もよく分かっていません。
よく分かっていないので、よく分からない記述になるんです。
しかし、その神様が見せてくださる幻を、エゼキエルはじっと見つめ続けました。
すると、幻自体は何が何だか分からないんですけれども、一つのことだけは分かりました。エゼキエル書に書いてあります。周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。つまり、美しいということです。あるいは「虹」に平和、神との和解をも見たでしょうか。そうして、こういう言葉があります。
これが主の栄光の姿の有様であった。
それは分かった。ですから、エゼキエル書は続けてこう記しています。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。
どういう声か。「人の子よ、自分の足で立て。これが、パウロが男に言ったのと同じ言葉です。自分の足で立て……ここに使徒言行録はエゼキエル書との重なりを見ています。」彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。
つまり、使徒言行録が言いたいことは、こういうことです。
足の不自由な男は、パウロが何を話しているのか、あのエゼキエルのように、何が何だか分からない。けれども、じっと聞いている。何もわからないんだけれども、一つのことは分かる。その話は美しい。わたしにとって美しい。平和がある、平安がある。ここに主の栄光がある。ここに神の栄光がある。それは分かった。
それを、パウロは「救われる信仰を持っている」と認めた。
いかがでしょうか。
信仰者は非常に信仰の理解ということをとても大切にします。大切にすることは悪いことではありません。重要なことなんです。理解を積み重ねていくことは重要です。信仰の理解が深まるごとに、信仰の強さ・強度は増すでしょう。
が、ときに、信仰の理解を積み重ねることに懸命になりすぎて、その中心点と言いましょうか、肝心かなめの一点を見失うということもあるわけでして、しばしば、私たちの信仰は本末転倒ということになるわけです。そうしましたときに、このお話は、またエゼキエル書のお話は、信仰に触れるというのは、理解を越えて、ああ美しい、ここに平和がある、それを神の栄光と呼ぶのではないか、この感覚の重要性を教えてくれます。それもまた、ふさわしい信仰であると、パウロは言うわけです。
もう一つのことです。11節です。
群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。
ギリシア神話におきましては、神々が、ちょっと人間界を見てくるかということで、人間の姿をまとって、町にやって来るということがよく描かれています。
その世界観に生きている人たちにしてみれば、バルナバはギリシアの最高神「ゼウス」であると。さすが、バルナバには威厳があったのでしょうか。
パウロは、そのゼウスから生まれた「ヘルメス」だと。ヘルメスは、ゼウスのメッセンジャーとして、ゼウスの意志を伝えるものという役割を担いましたから、福音を語るパウロは、ヘルメスの化身であると、リストラの人の目には映った。
そうしているうちに、13節、町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとしたというように、バルナバとパウロを奉るお祭りが始まろうとしている。
パウロたちは、慌てて、やめろ、やめろと、群衆の中に飛び込んでいく。
実に、滑稽な様子が描かれています。
が、そこで、パウロが群衆に語った言葉が重要です。
パウロは福音を語るんです。しかし、そこにいる人たちは、群衆は聖書を求めている人たちではありません。聖書を読んだことがない人たちです。
その人たちに、パウロは何を語ったのでしょうか。
15節、皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。ゼウスやヘルメスではありません。同じ人間です。人間を拝んではいけない。いや、そもそも、ゼウスという、ヘルメスという、このような偶像を離れてほしい。生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。神は生きておられる。今日、今この時に生きておられる。
パウロが告げる福音は、神は生きておられる、ということです。
この神に立ち帰る、この神と共に生きていく、ということです。
神話ではなく、人形でも偶像でもなく、神は生きておられる。
ならば、その生ける神はどういうお方か。どういう神に、立ち帰るのか。
パウロはなんと語っているでしょうか。
この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。
神は、天地を、この世界を創造され方です。
大切な点ですね。天地創造の神。これは聖書を読んでいない人でもわかる。
次です、16節、神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。今、わたしが伝えている生ける神を、実は、今日まであなたたちは知る機会がなかったかもしれない。あなたたちが思い思いの道を行くままに、偶像でも何でも拝んでしまうように、神がしておられたのだから。
が、17節、しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。神は、御自身が生きておられるということを、御自身が証されている。御自身で証明しておられる。自己証明しておられる。どのようにか。
この次が、今日の中心点です。
恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。
これが、神の自己証明であると、パウロが語ることです。実に大胆です。
天地を創造された神は、あなたに食べ物を与えてくれる神だ。
満腹になって体を喜ばす、心も喜びで満腹にする。それが神だ。
パウロは、一文字も、一行も、旧約聖書の言葉を引用していません。
キリストの十字架も復活も、罪も語りません。
語るのは、神は、あなたの体も心も喜びでいっぱいにしてくれることで、私たちを生かしてくださることで、御自身が生きておられることを証明しておられる。おいしい食事のなかに、神は御自身を証しておられる。それだけです。
人間にとって大切なことは、人間を崇めることでもない、偶像を拝むことでもない、食べて喜ぶことだと。神が与えてくださる食事を喜ぶことだと。
それをパウロは、生ける神に立ち帰ることだと言います。
それが全然、聖書に興味がない人と言いましょうか、聖書を求めていない人に対する、パウロの語り方です。実に大胆なという、そこまで言い切って大丈夫か、という疑問を、私たちは抱くかもしれません。
けれども、旧約聖書のコヘレトの言葉のなかに、こういう御言葉があります(2:24,25)。人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは/神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ。パウロの脳裏には、この御言葉があったのかもしれません。
そして、何より、パウロ自身の信仰のなかには、強烈なるキリストの十字架と復活への思いがある。それが中心にある。中心にあるならば、まったく聖書を読んだことがない人たちに、その入り口として、自由に、大胆に語ることができる。
神は、私たちに与えてくださる食事をもって、御自身を明らかにしておられる。
おいしいものを食べればうれしい。共に食べれば楽しい。
それが、生ける神に立ち帰ることなんです。
神が与えてくださった喜ぶべきことをちゃんと喜ぶこと。
神は喜びの神だから。苦難をもって、私たちに喜びを与える神だから。
こんなにも、大胆に、楽しく語ることができる。
私たちの信仰、その中心を掘り下げれば掘り下げるほどに、私たちは自由に、相手に合わせて、福音に生き、福音を語ることができるでしょう。
その喜びを、その美しさを、知っているんですから。
お祈りをいたしましょう。