「赦す生が始まる」

~聖霊を受けること、赦すこと~

 

ヨハネによる福音書20章19~23節

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

イザヤ書26章1章1~6節

1 その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた。2 城門を開け/神に従い、信仰を守る民が入れるように。3 堅固な思いを、あなたは平和に守られる/あなたに信頼するゆえに、平和に。4 どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。5 主は高い所に住まう者を引きおろし/築き上げられた都を打ち倒し/地に打ち倒して、塵に伏させる。6 貧しい者の足がそれを踏みにじり/弱い者の足が踏みつけて行く。

 

本論

この朝は、ペンテコステをお祝いする礼拝として、お献げをしています。

「ペンテコステ」とはどういう意味であるのか。

毎年、同じ説明をいたしますので、もう聞き飽きたという方もおられるかもしれませんけれども、今年も同じように、ご説明をいたします。

使徒言行録第2章をお開きください(新約214頁)。

1節に、「五旬祭が来て、一同が一つになって集まっていると」とあります。

ここにある「五旬祭」という言葉が、ギリシア語でペンテコステです。

「50日」、あるいは「50日目」という意味です。

いつから、「50日目」かといいますと、過越祭から数えて、50日目です。

そうしますと、私たちが4月にイースターをお祝いしてから、およそ50日が経ったということでもあります。

この間に、復活のイエス様は40日に渡って、弟子たちの間に現れたと、使徒言行録は記しています。そして、神の国について話された(使徒1:3)。

すなわち、御自身のご生涯全体の意味、とりわけ、十字架の意味、復活の意味を、旧約聖書に基づいて、人は死して終わりではない、神の命に生き続けるという復活の光のなかで、神の国を、私たち一人ひとりに及ぶ神のご支配、その御手の恵みを、復活のイエス様は、40日に渡って教え続けられたのでした。

そうして、弟子たちの見ている前で、天に昇って行かれた。

 

そのとき、一つの約束をしてくださいました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)。

この約束を胸に、弟子たちは祈り続けました。

一つの部屋に、すなわち、あの最後の晩餐で弟子たちが集まった、あの部屋に集まって、皆が心を合わせて熱心に祈り続けました(使徒1:14)。

その10日の後に、五旬祭の日が来たときに、イエス様が約束しておられたように、祈る弟子たちの間に、聖霊が降った、ということです。

その出来事が、使徒言行録2章に記されていたのでした(2:1-4)。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

この聖霊が降る、そして、弟子たちが聖霊に力を与えられる、福音を語る力を与えられる、この出来事をもって、代々の教会は、キリストの教会が誕生した、ペンテコステは教会の誕生日、ということでお祝いをしてきたのでした。

世界中すべての教会が、この聖霊が降ったペンテコステにルーツを持つ。

ここから、世界中に広がる教会の歩みが始まったのです。

そういうペンテコステを記念する礼拝で、今日、お読みした御言葉は、ヨハネによる福音書20章でした。復活のイエス様の記事です。

どうしてだろう、と思われた方もあるでしょう。

わたしも、最初、どうしてだろう、と思いました。

これは、わたしが選んだわけではなく、と言いましょうか、教会暦に基づく聖書朗読の箇所です。教会暦曰く、この年のペンテコステの礼拝で、ヨハネによる福音書のこの箇所を読むことになっているわけです。

そうして、よくよく見てみますと、この箇所にも、聖霊が記されています。

22節と23節の御言葉でした。

そう言ってから、すなわち、21節にありましたように、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」という、使徒言行録と同じ響きの言葉、「あなたがたの上に聖霊が降ると、……地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と同じ響きの言葉を、復活のイエス様は仰ってから、そうして、彼らに息を吹きかけて言われた。

「息を吹きかけて」なんてものではない、ここに使われているギリシア語は、もっ

 

と激しく、「息を吹き込んで」、聖霊の息吹を、命を、弟子たちのなかに吹き入れて、というニュアンスです。そうして、仰った。

「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。

だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

この御言葉に生きるための命の息を、イエス様は弟子たちの心のなかに、魂のなかに、信仰のなかに、吹き入れてくださいました。

それはまた、最初の人アダムが創造されたときに、神はアダムの鼻に命の息を吹き入れられた。「人はこうして生きる者となった」(創2:7)という光景をなぞるかのようにです。復活の主に、人は生きる者となる、その肉においても、その霊においても、生きる者となる。復活の主の命の息をいただいて。

「人はこうして生きる者となった」。人間として生きる者となった。

動物とは違う。神を知る、神の掟を知る人間として生きる者となった。

それが、ここに描かれている光景です。

そうしてイエス様は仰ったのです。人間に仰ったのです。

聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。

復活のイエス様が仰るには、人間というのは、赦して生きる者なんだということです。動物はいざしらず、人間は赦すことで生きる存在だと。

だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。

ここで言われている「罪」とは、どういうものでしょうか。

聖書が教える「罪」は第一義的に、神に対するものです。

神の教えに背くこと、神のもとから離れること、それを「罪」と言います。

その「罪」は、神様に赦されるほかはないものです。

それが人に対してであれ、何にであれ、どのような形をとったとしても、それは神に対する罪ですから、神様に赦していただくほかはないものです。

その意味において、人は赦す、ということはできない。

そのことを踏まえたうえで、ここで復活のイエス様が特に教えてくださる、もう少し狭い意味のと言いましょうか、広い意味のと言いましょうか、あなたがたが赦せば、と仰る「罪」に焦点を絞っていきたいと思います。

この「罪」を教えてくれるのが、今日、もう一つお読みしたイザヤ書の御言葉です。

イザヤ書26章をもう一度、お開きいただけますでしょうか(旧約1099頁)。

先ほど、1節からをお読みしましたけれども、20節をご覧ください。

さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。

しばらくの間、隠れよ、激しい憤りが過ぎ去るまで。

 

ヨハネによる福音書20章の弟子たちの姿と重なります。

弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。

その弟子たちの姿と、イザヤ書の御言葉との重なりをヨハネは見ています。

イザヤ書において、なぜ神様は、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。と仰ったのか。それは「激しい憤り」という、神の怒りが過ぎ去るのを待つためです。

21節、見よ、主はその御座を出て、地に住む者に、すなわち、私たちに、それぞれの罪を問われる。神は激しい怒りをもって、わたしの罪を問われる。

一枚、ページを戻っていただくと、26章7節のところに、「復活を求める祈り」という小見出しが付けられています。偉大なる神の御力を求める祈りです。

7節、神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。非常に美しく、神様への導きへの信頼が歌われています。

8節、主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み、わたしたちはあなたを待ち望みます。あなたの御名を呼び、たたえることは、わたしたちの魂の願いです。

9節、わたしの魂は夜あなたを捜しわたしの中で霊はあなたを捜し求めます。あなたの裁きが地に行われるとき、世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。

ひたすらに、神様への信頼が歌われる祈りです。

が、急に、10節、神に逆らう者は、憐れみを受けても、正しさを学ぶことがありません。公正の行われている国で不正を行い、主の威光を顧みようとしません。

11節、主よ、あなたの高く上げられた御手を、彼らは仰ごうとしません。民に対するあなたの熱情を仰がせ、彼らに恥を受けさせてください。敵対する者に向けられるあなたの火が、彼らを焼き尽くしますように。

9節までに、まっすぐに向いていた神様への信頼が、10節に、突然、乱れます。

神に逆らう者、敵対する者、その者たちに、恥を受けさせてください。

彼らを焼き尽くしてください。

こういうことが、私たちにもあるのではないでしょうか。

神様に心を向けながらも、急に、人の行動に気が散り始めるんです。

人の罪が気になり始めるんです。怒りが沸き起こってくるんです。

彼らは、あなたから正しさを学ぶことをしない。

主のご栄光を顧みることをしない。あなたを仰ぎ見ることをしない。

日常生活、信仰生活のイチイチが気になり始める。

自分のことは棚に上げながら。

自分は、あいつらは違うという高慢に取りつかれ始めるんです。

一瞬でした。9節から10節の間に、一瞬に変わってしまいました。

神様をまっすぐに見つける信仰は、一瞬にして人間の欠けばかりを追いかけ始める。

 

それは、私たちの日々の姿を思い起こさせるものであり、また弟子たちの姿でもありました。

弟子たちは、自分たちのなかで誰が一番、偉いのかという議論をよくしました。

おそらくは一度や二度ではない。マルコによる福音書(9:33-37)とマタイによる福音書(18:1-5)は、それがカファルナウムにいる時であったと記し、ルカによる福音書(22:24-27)は、最後の晩餐の席のことであったと記しています。

また、ヤコブとヨハネの兄弟が、他の弟子たちを出し抜くかたちで、イエス様に、「栄光をお受けになるときは、わたしどもの一人を右に、もう一人を左に座らせてください」(マル10:37)なんてお願いをするものですから、他の弟子たちが怒りだすという場面もありました。

最後の晩餐の席で、ペトロは何があってもイエス様について行くと言いました。その時に言うんです。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マル14:29)。自分がついていくとだけ言えばいいんです。「みんながつまずいても」なんて、言う必要のないことです。

つまり、弟子たちにとって互いの存在は、弱さを担い、支え合う仲間ではなく、いかに立派な信仰者かという競争相手であった、ということです。

誰が一番偉いか、という議論は、誰が偉くないかということを見つける議論です。

イエス様の教えを理解することに劣っている。

信仰生活に敬虔さが足りない。粗探しをする議論です。

互いを比較し合い、それで良いところを見習い合うというのではなくて、足を引っ張り合うという、弟子たちは互いをそういう競争相手として見ていたということです。

また、自分たちのことを歓迎しない人たちに対して、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ9:54)なんてこともありました。

そういう心が、いつも私たちを縛っています。

信仰の友が、競争相手であるはずがないんです。

イエス様は新しい掟として、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ13:34)と仰いました。

それが決して簡単なことではないことを、イエス様も弟子たちをいつも見ているんですから、分かっておられます。でも、言われた。復活の主も仰った。

だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。

一番の問題は、そこで、キリストの平和が、平安が、手放されていることです。

 

「赦す」というギリシア語は、「解放する」、「手放す」とも訳せます。

友の罪を、あなたの心のなかにある友の罪を、あなた自身が解放しなさい。

解放したら、その罪から、あなた自身が自由になるから。

そして、復活のイエス様が、弟子たちに、教会に、命の息を吹き入れて、赦された者として、赦す人間として生きることを委ねられたのは、その権威を与えられたのは、私たちが互いに罪を赦し合い、解放し合うためです。その解放を語るためです。

一人の人間が赦し生きることは、その人ひとりの問題に留まるのではない。

その周囲の人間が、赦しはある、神の赦しはあると知る行為です。

互いを縛る罪から自由になり、キリストの赦しを世界に告げ知らせていくこと、そこに聖霊に導かれる教会の姿があります。

人の罪も、自分の罪も、ため込めばため込むほど、実体以上に大きなものになります。ますます手放せなくなります。でも、手放すのは難しい。

ですから、復活のイエス様の御言葉に耳を寄せたい。「聖霊を受けなさい」。

私たち一人ひとりの、罪を赦してくださる神は、同時に、私たちに赦す力を与えてくださる神でもあられます。

ここにいる誰もが、隣人を赦すことができる、何があっても大丈夫。

そんな過信はしていません。

私たちが知っているのは、小さなことも赦せない自分の高ぶりです。

ですから、私たちは、神の御力をこそ、過信します。

いくら、過信しても、過信しすぎることのない神の御力を過信します。

だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。

その力を与えてくれるのは、神です。

誰をも競争相手とするのではない、愛する友とすること。

神に赦された者として、いつか赦す者として生きられるのではないか。

その期待を胸に生きる時、教会は他のどことも違う世界を造り出すことができます。

誰かを愛せたなら、共にあることを喜べたならば、そこに聖霊の御力があることに、私たちは気づけます。競い合うのではない、愛し合う世界がある。

聖霊なる神は、私たちの教会を用いて、聖霊がつくる世界を見せてくださいます。

だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。

お祈りをいたしましょう。