「主が恵みの言葉を証しされる」
~信じる人、信じようとしない人~
使徒言行録14章1~7節
1 イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。2 ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。3 それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。4 町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。5 異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、6 二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。7 そして、そこでも福音を告げ知らせていた。
イザヤ書65章1~2節
1 わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。2 反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に/絶えることなく手を差し伸べてきた。
■本論
パウロ一行はしばらく滞在していましたピシディア州アンティオキアから、イコニオンに移動しました。イコニオンは交通の要所で、大きな街でした。パウロのいつもの伝道スタイルです。まず大きな街に、その地域の中心的な町に行く。
アンティオキアからイコニオンまではだいたい150キロぐらいです。
だたい、岡山と大阪の間の距離です。歩くと、4、5日かかる距離です。
ただ、一本道です。セバステ街道という大きな道、軍隊も十分に通られる道が走っていました。その道を進んだときに、アンティオキアの次の大きな街がイコニオンになるわけでして、パウロたちとしましては、いつもの通り、人が四方八方から集まる、大きな町イコニオンを目指した、ということでしょう。
さて、そのイコニオンでの書き出しを、使徒言行録は、1節、「イコニオンでも同じように」と記しています。パウロたちの基本スタイルは変わりません
ですから、前回までの、アンティオキアでのことを、もう一度、確認しましょう。
パウロたちが安息日に、会堂・シナゴーグに行って、御言葉の説教をする。
信じる者は皆、この方によって、イエス・キリストによって、義とされるのです。
罪赦された者として、神と共に生きるのです。
その説教を、多くの人たちが、もっと聞かせてほしいと、好意的に受け止めました。
そして、13章44節、「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」というほどに、それまで会堂に足を踏み入れたことがない人
たちで、会堂がいっぱいになるという事態が生み出されました。
が、人が増えれば増えるほど、ねたむ人たちがでてきました。
会堂の中に、自分の居場所がなくなってしまう、と不安になってしまいました。
会堂にたくさんの人が来てくれていることを素直に喜べなかった。
それはまず、「ユダヤ人」であったと記されています。つまり、割礼を受けている人たちです。割礼は、創世記17章に根拠を持つ、由緒正しきと言いましょうか、体の一部に傷をつけて、神との契約のしるしとするものです。
ユダヤ人にとりましては、割礼こそが、神の民のしるし、いや、人間のしるしでありまして、人間を大きく分けるならば、割礼を受けている人間か、そうではない人間か、という、それほどに決定的に重要なものでした。
そのユダヤ人が、パウロが語りました、「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」、すなわち、割礼によってではなくて、イエス様を信じることが、人が救われているしるしだ、という説教に怒ることは、分かります。
割礼が否定されているわけですから。そして、異邦人が喜ぶことも分かります。
「異邦人」は文字通りには「外国人」という意味です。聖書が「異邦人」という場合には、ユダヤ人ではない人、割礼を受けていない人です。
割礼を受けていない異邦人が、パウロの説教に喝采を送り、ユダヤ人がねたむ、怒る、というのであれば、それは非常に分かりやすい。が、そう単純ではない。
13章50節、ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
「神をあがめる」という言葉は、シナゴーグに来ている割礼を受けていない異邦人を指す言葉でした。もうこれはテクニカルタームです。神をあがめる人、神を畏れる人といいますのは、シナゴーグに通う異邦人のことです。
その人たちも一緒に、つまり、ユダヤ人と異邦人とが手と手を取り合って、パウロたちを、アンティオキアの町から、その地方から追い出した、ということです。
つまり、彼らの心の根っこにあったのはやはり、そして実は、割礼と救いという神学的な問題ではなくて、会堂に知らない人があふれている、自分の場所だと思っている会堂で、自分が肩身の狭い思いをしなくてはいけないという「ねたみ」であったということです。それは、ユダヤ人だけではなくて、「神をあがめる貴婦人」という異邦人の心にも等しく芽生えた「ねたみ」であったということです。
この「ねたみ」のために、言ってみれば、救いは自分たちだけのものだ、普段から会堂に通っている自分たちだけのものだ、という実に愚かな救いの囲い込みのために、せっかく頂いている神の恵みを受け取りそこなう、救いの大きさを、ありがたさを受け取りそこなうということが、ユダヤ人だけではない、異邦人にも起こった。
救いは、神の恵みです。「恵み」であるという意味は、そこに一ミリも、自分の成果はないということです。誇る点は何一つないということです。
それは、神が与えてくださったものです。神が会堂に招き、御言葉を聞かせてくださり、救いに、永遠の命に結び合わせてくださるものです。
その恵みに、人があずかっていることが我慢ならない、ねたむ。それは、パウロが言うように、「自分自身を永遠の命に得るに価しない者にしている」という状況です。
神が永遠の命を奪うんじゃない。自分で自分をその命に価しない者にしている。
ここに新しい状況が生まれていることに気づかされます。つまり、もはやユダヤ人かどうか、割礼を受けているかどうか、が問題ではない。
地の果てにまで救いをもたらす、という神の恵みを、そうなんだと受け入れるか、どうか。あなたは永遠の命に定められているという神の恵みを受け入れるかどうか。
あの人が救われているか、どうか。そんな「ねたみ」はどうでもいいんです。
神が、わたしを永遠の命に定めてくださっていることを受け入れるかどうかです。
それが、救いという問題を考えるときに何より大切なことです。
神が、わたしを選び、救ってくださった。しかし、しばしば、私たちは考えるんです、あれ、そうすると、あの人は救われているんだろうか、親しい人、家族、あの人はどうなんだろうか、と。一緒に天国に行けるんだろうか。
そういうことは、まず、自分が救われているという、その地点に立って考えることでして、そうではないところでいくら考えても、答えはでません。
神が、わたしを選び、救ってくださった、まずそこに立つことです。
そこに、ユダヤ人か、異邦人か、なんてことは関係ない。
つまり、救いのしるしの線が、ユダヤ人と異邦人の間にではなくて、主イエス・キリストの救いを、神の恵みとして受け入れるかどうか、その間に引かれていることが、このあたりで、明瞭にされていくわけです。その線はずっと旧約聖書から引かれていた線ですけれども、割礼をはじめ色々な事柄があって見えにくかったものです。
その覆いが取り除かれ、明瞭にされていく。人びとの行動となって、「ねたみ」という心においてあらわされていく、その跡を使徒言行録は記していきます。
受け入れなかった者が、ユダヤ人であれ異邦人であれ、こぞって協力して、パウロを迫害しました。受け入れた者は、やはりユダヤ人であれ異邦人であれ、弟子となり、喜びと聖霊に満たされていた。
そのアンティオキアで起こったことが、同じように、イコニオンでも起こります。
パウロたちは、同じように、14章1節、「ユダヤ人の会堂に入って話をした。その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った」。しかしまた、2節、「ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」。使徒言行録は意識的に、ユダヤ人とギリシア人・異邦人の間に線はない、「ねたみ」が、「悪意」が両者を分かつ者だ、ということを記していきます。
4節、「町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた」。
5節、「異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとした」。
もう異邦人とユダヤ人が、パウロが言ったのとは違う意味で一つになっています。
パウロは、キリスト・イエスにおいて一つだと言いました。
それとちょうど対になるかたちで、神の恵みを本当に恵みなんだと、わたしが誇りえるものは何一つない、ということを受け入れられない者は、異邦人であれユダヤ人であれ、悪意とねたみにおいて、一つとなりまして、パウロたちを追い出すことになります。アンティオキアで起きた同じことが、イコニオンでも起こったのでした。
が、そうした状況のなかで、私たちの目をひきますのは、パウロたちが、アンティオキアのときと、同じように、あり続けたということです。
福音を語り、福音に生きるということです。
会堂で御言葉を語る、と悪意が向けられました。そこで3節、それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。ここが、この箇所の中心です。
「それでもοὖν」と訳されましたけれども、ここに使われました単語は逆接を意味するものではありません。むしろ、「それゆえ」と訳すのが自然な単語です。
悪意を向けられた。だから、それゆえ、二人は、長くとどまったんです。
悪意がどういうものであるのか、明らかにされるために。
パウロの説教を聞いて、その新しさからくる反発であるのか。人は新しい情報には心の抵抗を覚えるものです。自分が知らないことを否定したくなるものです。そういう類のものであるのか。それならば何度も何度も長く語り続ける必要があります。
が、そうではなくて、「自分自身を永遠の命に得るに価しない者にしている」としか言いようのない、神の恵みをゴミ箱に捨てるような悪意であるのか、何で誰でも彼でも信じる者は救われるというのかという、ねたみであるのか。
悪意の正体が人びとの間で明らかにされていく、今、悪意を持っている人自身の心のうちでも明らかにされていく、それゆえに、二人はそこに長くとどまりました。
長くとどまって、「主を頼みとして勇敢に語った」。ちょっとかっこよすぎる翻訳になっていますけれども、もっとシンプルな文章です。
「主において大胆に語った」、あるいは「主のことを自由に、そのままに語った」。
要するに、説教をしたパウロに悪意が向けられたわけですけれども、そこには誤解も入っているかもしれません。うまく伝わらなかったことがあるかもしれません。
ですから、パウロは、主がどういう方であるのか、イエス様がどういう方であるのか、大胆に、率直に、そのままに、語った、ということです。
この点も、「同じように」です。パウロは、誰に対しても、「同じように」語り続ける。主イエス・キリストを、そのままに、主に救われた自由人として、語る。
で、そのパウロが語った主が、どういうお方かと言いますと、3節の後ろです。
主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行うお方です。
「しるしと不思議な業」も、これは使徒言行録、また福音書の決まった言い方です。
神様の御業を、神様がなしてくださることを、「しるしと不思議な業」という言い方をするんです。とりたてて「奇跡」のようなものを想像する必要はありません。
神様のなさることは、本来、いつも不思議なことであるはずです。
私たちが生きている、生かされていることだって、不思議なことです。
ずっと、心臓が動き続けている。自分で動かそうと思っているわけでもない。あるいは、勝手に、疲れたといって休むわけではない。絶え間なく動き続けている。
これは、神様がつくり、守ってくださっている不思議な業です。
また、この朝、私たちがここに集うことゆるされている。
このことも神様がなしてくださった不思議な業です。
そこに、神の恵みを見つけ感謝をするか、がんばって早起きをしたということに留まるか、そのことによって見えてくる世界は全然、違います。
主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行いと言いますのは、パウロたちが本当に、神の恵みに生きたということです。パウロたちがなすこと、生きることを、神が用いられたということです。そして、その恵みの言葉を証しされたのである。
パウロたちは恵みの言葉を語る。救いは神が与えてくださったものだと、いや、そもそも、こうして、わたしが生きて、語ることそれ自体が恵みであって、神が与えてくださったもので、わたしが誇ることは何一つない。
パウロたちが、その恵みの言葉を語り続けるために、そのことが本当に、そうなんだと証しされるために、神は、パウロに必要なもの一切、与えてくださった。
神が必要なものを一切、与えてくださるから、そして、パウロたちがそれを恵みだと受け止められるから、恵みの言葉を語り続けることができました。
パウロたちが、そして、教会が語るのは、恵みの言葉です。
神が必要なものを一切、与えてくださるという恵みの言葉です。
この恵みの言葉のうえに立ち続けるのが、教会です。
その意味は、本当に、自分たちには何も力がないという謙遜に立つことです。
それでも、いや、それゆえに、神は必要なものを与えてくださっているという安心に立つことです。
自分たちは何でもできるんだという全能感に浸ることも、逆に、自分たちには何もできないんだという絶望感に浸ることも、教会の立つ場所ではありません。
教会に、人を救う力がある。ありません。過度な期待も、過度な失望も無意味です。
教会に、私たちにできることは、恵みの言葉を語り続けることです。
教会はいろいろな喜びを経験します。
信じる人が起こされていく。信仰の出会い、再会がこの場で織りなされていく。
が、それ以上の悲しみも経験します。信仰の破れを見ます。
そのときに、思い出さなければいけません。
教会に、私たちにできることは、恵みの言葉を語り続けることだけです。
それ以外の言葉は、ひと言も必要ありません。
ただ、神だけが、神の恵みの言葉だけが、人を救うことができます。
だから、私たちは救いの中に置かれています。それが、私たちの希望です。
そのことが分かっていながら、しかし、私たちは忘れます。
そこに、悪意やねたみが生まれてきます。
そんな言葉は、教会に必要ありません。それは、神の御業を邪魔することです。
パウロたちがイコニオンに長くとどまり、悪意の正体が明らかになってきたところで、速やかに、他の町に移っていきます。
アンティオキアでも同じでした。13章51節、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。「足の塵を払い落とす」のは、自分と他者の線引きをするという行為です。つまり、パウロとしては自分の責任を果たしたということです。
そこで、お前たちは呪われよ、なんてことは言わないんです。
あるいは、逆に、首根っこつかまえて、信じなさい、なんてことは言わないんです。
そんなことをしても、人は救われません。
そんなことは、神様の救いを邪魔することです。
パウロの役割は、恵みの言葉に生き、恵みの言葉を語ることです。
それは、徹底して、神に信頼するということであり、目の前にいる人の救いを、神にお委ねする勇気をもつことです。救われた者として生きることです。
足の塵を払い落としたパウロは、もうアンティオキアに関わらない、イコニオンには関わらない、そういうことではありません。すぐにまたこれらの町に戻って来ます。
その都度、その都度、その瞬間、その瞬間に、神から与えられている責任に忠実であること、そこに、恵みの言葉に生きるパウロの姿がありました。
教会の姿もここにあります。恵みの言葉に生き、恵みの言葉を語ることです。
その意味を、自分の生き方として、深めていくことです。
少しでも、救いは自分の力で得たという思いが入り込むときに、ねたみが、悪意が生まれてきます。それが、恵みから遠ざかっているしるしです。
ただただ、恵みの言葉に、神が必要なものを一切、与えてくださるという真実に立つ。そのパウロを神が用いられました。教会を用いてくださいます。
お祈りをいたしましょう。