「罪の赦しが今ここに」

~律法による義と信仰による義と~

 

使徒言行録13章38~43節

38 だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、39 信じる者は皆、この方によって義とされるのです。40 それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。41 『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、/お前たちにはとうてい信じられない事を。』」42 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。43 集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。

ハバクク書1章5節

5 諸国を見渡し、目を留め/大いに驚くがよい。お前たちの時代に一つのことが行われる。それを告げられても、お前たちは信じまい。

 

本論

今日、招きの言葉でお読みしたローマの信徒への手紙は、パウロが記した書簡のなかでは最も後期に記されたとされるグループの書物です。その一節をお読みしました。

「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

それに対しまして、今日、お読みした使徒言行録の箇所は、聖書が記録する限りにおいての、パウロの最初の説教です。とりわけ、39節。

信じる者は皆、この方によって義とされるのです。

感動を覚えることは、パウロはずっと同じことを言い続けたんだなということです。

それはまた、パウロが自分の考えを述べ続けたというわけでもなくて、正確には、教会の信仰に生きて、その信仰を愚直に語り続けた、ということです。

これまで2回に分けて、ピシディア州アンティオキアの会堂でなされたパウロの説教を読み進めてきました。今日が3回目で、締めくくりのところです。

そして、42節、43節には、説教のあと、礼拝のあと、なお人びとは、パウロとバルナバと話したいということで、ついてきた。そこで、43節の終わり、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。とあります。

「神の恵みの下に生き続けるように」。

「正しい者は信仰によって生きる」、「信じる者は皆、この方によって義とされる」、それは要するに、「神の恵みの下に生き続けるように」ということなんです。

「恵み」とは、「無償の贈り物」という意味。ギブアンドテイクではない。一方的に、贈られるものです。神が無償で与えてくださった恵みのもとに生き続けるように。

このメッセージを、実は、使徒言行録の中で既に一度、目にしています。

11章23節です。アンティオキアの教会、こちらはシリアにあるアンティオキアの

 

教会に、バルナバが遣わされたときの場面です。こうあります。

バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。

両方のアンティオキアで、バルナバは同じことを言っています。

それが、福音というもの、教会のメッセージだからです。

「神の恵みの下に生き続けるように」。

ならば、神の恵みとはどういうものか。何が無償で与えられたのか。

なんでも、神の恵みといえば、それはそうです。

神が世界を創造された、私たちを創造されたわけですから。

神と無関係に、この世界に存在しているものはありません。

ですから、すべてが、神の恵みです。

が、とりわけ、ここのギリシア語を見ますと、冠詞がついています。

つまり、「『その』神の恵み」という言い方です。

目に映るもの、目に見えないもの、すべてが神の恵みなんだけれども、とりわけ、「『その』神の恵み」というものがある。「『その』神の恵み」とは何か。

実は既に、「『その』神の恵み」を、パウロの説教から、私たちは聞いてきました。

少し戻って、23節。神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。

26節の後ろ、この救いの言葉はわたしたちに送られました。

神が、救い主イエスを送ってくださった。救いの言葉を送ってくださった。

イスラエルの民が約束を果たしたからではなくて、神が御自分の正しさにかけて、約束を守ってくださって、救いを送ってくださった。

「『その』神の恵み」を、パウロは語ってきました。

では、救いとは何か。救いの言葉がなすことは何か。

それが今日の38節、だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による、救い主イエスによる、罪の赦しが告げ知らされた。

どうやら、「救い」とは、「罪の赦し」のことを言うようです。そして、その「罪の赦し」に至るものを、「『その』神の恵み」を言っているようです。

では、「罪の赦し」とは何か、ということを、パウロの説教から学ぶことにいたしましょう。そうすることで、「『その』神の恵み」を私たちは立体的に、自分のものにすることができるはずです。少しずつ見ていきたいと思います。

もう一度、38節と39節をお読みします。38 だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では

 

義とされえなかったのに、39 信じる者は皆、この方によって義とされるのです。

いかがでしょうか。これで分かる人は分かる。しかし、分からない人はまったく、一ミリも、何を言っているのか分からない、ということになるんじゃないでしょうか。

パウロの説教はずっとそうなんですけれども、前提を語りません。

そもそも「罪」とは何なのか。創世記に遡って、アダムとエバの堕落から語り直すなんてことはいたしません。それは野暮なことだからです。

それで、40節、「それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい」ということで、「預言者の書」を引用するんです。

41節に記されているのは、ハバクク書1章5節にある御言葉です。

ハバクク書のなかで、罪のこと、罪の赦しのことを語りきろうとするんです。

ですから、今日は、私たちも、パウロの語り方に合わせて、その筋道に合わせて、ハバクク書にある御言葉から、「『その』神の恵み」を考えてみたいと思います。

もう一度、ハバクク書をお開きください。1464頁です。

1章5節に、諸国を見渡し、目を留め。大いに驚くがよい。お前たちの時代に一つのことが行われる。それを告げられても、お前たちは信じまい。とあります。

この御言葉は、「警戒しなさい」という言葉と共に引用しました。

細かい文言の違いは、翻訳の問題もありますので、気にする必要はありません。

それでも、使徒言行録の方にあった、「侮る者よ」、「滅び去れ」、この言葉は、明確にハバクク書にはありません。パウロが勢い余って、付け足した言葉です。

目を留め。大いに驚くがよい。

神がお前たちの時代に果たされる約束、一つのこと、救いの御業がある。

しかし、お前たちは信じない。信じないから、侮る。

パウロは、ここで「罪」を語っています。

「罪」というのは端的に、神を信じないことです。神を侮ることです。

全部、前提をすっ飛ばして、パウロはそこから語り始めます。

「警戒しなさい」と、「侮る者よ」と、罪よ、「滅び去れ」と。

ただ、注意が必要です。「お前たちは信じまい」と、パウロが言いますのは、決して、無神論者のことを言っているのではありません。

ハバクク書が語りかけている人たち、パウロが語りかけている人たち、そこに神を信じない者はいません。神を信じる者がいるんです。会堂に、教会に集う人たちに、すなわち、神様を信じる人たちに、この言葉は向けられています。

実は「信じない」危機にいつも晒されているのは、信じる者・信じたい者なんです。

どういう「信じない」危機であるのか。どういう罪の危機にさらされているのか。

預言者ハバククは、その危機にさらされている自分の姿を、私たちの前に置きます。

ハバククの視界には、この世の不条理が広がっています。

 

1章3節、災いがある、労苦がある、暴虐と不法がわたしの前にあり、争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。この地には平和がない。人の心に平安がない。

1章4節、神の掟であるはずの律法はまったく無力だ。人を救わない。正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、ひと度、正義が示されても、次の瞬間には、その正義は、曲げられてしまう。形を変えてしまう。一人の人間の正義が他の人間の不正義となって、争いが絶えない。結局、栄えているのは、神に逆らう者たちばかりで、律法はただただ、無力さを示し続ける。

神の掟である律法はそれ自体、善いものであるはずなのに、それ自体が人を救うはずであるのに、誰も守らないので、誰も守れないので、無力となっている。

誰も、モーセの律法では義とされない。救われない。

その不条理を目の前に置きながら、ハバククは叫んでいるわけです。

1章2節、主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに、あなたは助けてくださらない。

この叫びが、ハバククが人びとの前にさらした、信じない人間の姿です。

「主よ」と、神に叫んでいますから、神を信じてはいるんです。

が、神はわたしの叫びを聞いてくださらない。助けてくださらない。

律法が無力であるならば、神も無力であると侮る。

パウロが「警戒しなさい」、「滅び去れ」と言いましたのは、この侮りです。

1章13節、あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら、捨てて置かれることはない。そのように神を信じている。信頼している。が、その心のままに、神を侮っている。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら、黙っておられるのですか。何もしないんですか。何もできないんですか。その力がないのですか。神に逆らう者が、自分より正しい者を、呑み込んでいるのに。

神は結局、何もできない、この侮り、この罪に、ハバクク書は、そして、パウロはターゲットを絞って、集中して、言葉を向けています。

2章4節、見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。

神に叫びながら、嘆きながら、しかし、実のところ、神は無力だと侮っている者は、高慢な者なんだと。神を信じているふりをしながら、己を信じているんだと。

まさに、それが「罪」です。1章11節にありました。

しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ。

どうせ、神には何もできないと、神を批評する人間になっている。

それは高慢、自分の力を神としている。それは、正しくない。

ならば、正しいとは何か。神が求める正しさに従う人間とは何か。

 

もう一度、2章4節。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。

「神に従う人」は少々強い意訳です。そのまま訳しますと、「正しい人は信仰によって生きる」です。ローマの信徒への手紙で引用されていた御言葉です。

パウロがずっと、ハバクク書を追いかけていることが分かります。

「正しい人は信仰によって生きる」。

ならば、その「信仰」とはどういうものか。本当に信じるとはどういうことか。

その直前、2章3節です。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。

預言者は、信仰者は、この世の不条理に、目の前のことで、心が一杯になる。

神は何をしておられるんだと、助けてくださらないと、無力だと嘆く。

しかし、そこで、預言者が聞くのは、もう一つの幻が、もう一つのヴィジョンが、同じ現実なんだけれど、もう一つ違う見え方があるだろうということです。

それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。神は約束を守る。

たとえ、遅くなっても、遅いと感じられることがあっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。手遅れにはならない。

信仰は待つことができる、ということです。

同じ現実の中に、どうしようもないと思える現実の中に、いや、そうではない、神がそこでなしておられることがある、無力ではなくて、既にこの時に神がなしておられることがあるという、もう一つのヴィジョンを見ることができる。

見ることができるから、待つことができる。

それを、ハバクク書は、「信仰」というわけです。

預言者ハバククは、最初に、信じない自分の姿をさらしましたので、最後には、信じる自分の姿を、人びとの前に置きます。

3章13節、あなたは御自分の民を救い、油注がれた者を、救い主を救うために出て行かれた。神は動いた。ここにパウロは救い主イエスを送ってくださった。救いの言葉を送ってくださった。イエスはご復活されたという出来事を見ているでしょうか。

そうしますと、16節、それを聞いて、わたしの内臓は震え、その響きに、唇はわなないた。驚いたんです。神の御業に驚けたんです。

1章5節に言われていました。大いに驚け。でも、全然、驚かない。信じない。神の無力さばかりに心が引っ張られていましたから。

けれども、そこに、もう一つのヴィジョンを、神が今この瞬間にもなしておられることがあると分かるならば、人は驚く。そして、3章16節の後ろから3行目、静かに待つことができる。神が傍らにあってくださるんですから、なしてくださっていることがあるんですから、安心して、静かに待つことができる。

その瞬間に現実それ自体が変わっているわけではありません。17節、いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。

 

依然として、苦しい状況は1章の時点から変わっていません。

が、ハバククは、3章18節、しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊るという。神は助けてくださらないとはもう言わない。19節、わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる。

信仰の道を歩み始めている。

静かに待つ、というのはじっとしていることでは必ずしもありません。

変わらない現実のなかに、もう一つのヴィジョンを見て、歩き始めることです。

それが、ハバクク書の教えてくれる信仰生活です。

ハバクク書の最後に、「指揮者によって、伴奏付き」という言葉が付されるのは、この預言者が節をつけて、メロディーをつけて歌われていたことを教えてくれます。

信仰生活は、歌いながら、歩むものです。

このハバクク書の御言葉をふまえて、最後に、使徒言行録に記された一つの言葉に戻りましょう。13章39節。信じる者は皆、この方によって義とされるのです。

それが、罪の赦しなんだと言われていました。

罪が、神を信じない、侮ることだとしますならば、罪の赦しは、神を信じることができるようになる、ということです。神を信じることを、神がお赦しになった。

私たちの目の前にある現実に、もう一つのヴィジョン、神が傍らにあってくださる現実を見る。神を侮らない、神を信じることは、神の贈り物です。恵みです。

わたしはこの世にある、だいたいのことは、根性と気合で何とかなると思っています。何とかならないことは、自分に託されたものではないと思っています。

しかし、何とかしたくて、かつ根性と気合では何ともならないものが二つある。

一つは、人との出会いであり、もう一つが神を本当に信じることです。

神の恵みのもとに生き続けること。

これは、神が恵みを与えてくださるほかない。待つほかない。

しかし、今日、私たちは神の言葉を与えられました。

たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

神は、主イエス・キリストにおいて、罪の赦しを与えてくださいます。

それは、信じる者が・信じたい者が、本当に神への侮りを捨て去ること。

神は必ず、なお私たちに罪の赦しを与えてくださいます。

その神の恵みのもとに、私たちは生き続けます。

お祈りをいたしましょう。