「神の言葉を聞く人の態度」
~愛には愛で応じるもの~
26 兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。28 そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。29 こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。30 しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。31 このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。32 わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。33 つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、/『あなたはわたしの子、/わたしは今日あなたを産んだ』/と書いてあるとおりです。34 また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、/『わたしは、ダビデに約束した/聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』/と言っておられます。35 ですから、ほかの個所にも、/『あなたは、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしてはおかれない』/と言われています。36 ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。37 しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。
申命記18章15節
15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。
■本論
パウロの第一次伝道旅行のなかでなされた、ピシディア州アンティオキアの会堂での説教を読み進めています。前回に学びました16節から24節までが、旧約の歴史であるとしますならば、今日、お読みしたところは、新約の歴史と言えます。
ただ、本題に入る前にと言いましょうか、この「旧約」、「新約」という言葉遣いには少し注意が必要であることを確認しておきましょう。
「旧い約束・契約」と「新しい約束・契約」と言いますと、まるで二つの約束があるように聞こえます。が、そういうことではありません。
聖書が伝える約束は、一つだけです。ただ、一つだけです。
34節。わたしは、ダビデに約束した、聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える。
神は、祝福をあなたたちに与える。
ダビデに約束した救い主を通して、神は与える。
約束はこれ一つです。その約束を伝えるのが旧約聖書。この約束は確かに守られま
した、と、イエス・キリストにおいて成就しました、と伝えるのが新約聖書です。
別々の約束があるわけではない。聖書は一つの神の約束を伝え続けています。
ですから、パウロが語るのも、基本的には、その約束のことだけです。
この説教であろうと、あるいは、その手紙においても、パウロは一貫して、神の約束、神が約束を守ってくださった、ということをずっと語っています。
そのうえで、32節をご覧ください。こう言っています。
わたしたちも、先祖に与えられた約束について、それが旧約聖書に記されていることです、その約束を神は守ってくださった、あなたがたに福音を告げ知らせています。
こういう言い方になります。
「福音」という言葉の、聖書が用いる第一義的な意味は、これです。
神は、約束を守ってくださったということ、それを「福音」と呼ぶわけです。
文字通りには、「良い知らせ・ユーアンゲリオン」という言葉です。
ローマ世界においてを、皇帝が戦いに勝利する、その知らせがローマに届く、その良き知らせを「福音・ユーアンゲリオン」と呼びました。
その「福音・ユーアンゲリオン」という言葉を、パウロは、神が勝利された、という意味で用います。神の約束を反故に知るような、人間の罪があろうと、人間の背きがあろうと、神は約束を守ってくださった、旧約聖書に約束されていることを、神は、イエス・キリストにおいて、実現してくださった。
前回に学びました23節をご覧ください。神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルの救い主イエスを送ってくださったのです。
神は御自身の約束に基づいて、救い主イエスを送ってくださった。
それこそ、神の勝利、良い知らせであると、福音であると、パウロは言います。
その福音が、私たちに届けられたこと、私たちの知るところとなったこと、それが、パウロにとりましての新約の時代です。
今日、お読みした、26節です。
この救いの言葉はわたしたちに送られました。
イエス・キリストという救いの言葉、良い知らせは、私たちに送られました。
今日の説教題を「神の言葉を聞く人の態度」といたしましたけれども、その意図は、聖書を読むときに大切な心の在り方は、聖書にある救いの言葉、その約束が、わたしに送られたものなんだと、神が送ってくださったものなんだと、いうことです。
聖書はしばしば、神から人間にあてられたラブレターであるという言い方がなされます。それは本当にそうなんです。神から人間に対する愛が、わたしに対する愛が記されています。それを受けとめる心の在り方があれば少々、分からないところがあっても良いんです。実は、それで聖書が読めるんです。逆に、その心の在り方がありませんと、聖書にでてくる登場人物を全部、覚えたとしても、結局、何が言いたいか、
分からないということになります。
聖書に記してあることは、約束は果たされた、この救いの言葉はわたしたちに送られましたということです。
このことを今日、一つ覚えておきたいと思います。
もう一つのことも覚えておきたいと思います。
パウロは、あなたがたに福音を告げ知らせています、というんですけれども、パウロは、どの点をもって、何をもって、神は約束を果たされたんだと、つまり、救い主イエスを送ってくださった、と言っているのか、です。
言い方を変えますと、イエスはなぜ、救い主と言い得るのか、ということです。
パウロが見ていますのは、これも一点だけです。
というより、旧約の民が、聖書を読んで、救い主を待ち望む、といいましたときに、その人が救い主かどうかを見分けるポイント、究極的な目印は一つしかありません。
その目印をずっと見ている。旧約の民は、パウロは見ている。
が、その究極的な目印を教えてくれる聖書の箇所を、パウロはここで語っていません。それは、このとき、会堂にいるみんなが共有している、もう当たり前すぎることだからです。これが、新約聖書を読む難しさです。新約聖書を読む人にとって、常識であること、当然であることは、説明されずに、当たり前のように、そのことを前提として、議論が進んでいくところがありますので、それを知らない私たちにとりましては、何が問題にされているのかが分からないと戸惑うことがあります。
とりわけ、聖書の専門家、聖書のプロであるパウロにとりまして、それを語ると、もう野暮だ、ということがある。それで、パウロは、旧約聖書が約束している、救い主の究極の目印を語らないまま、その箇所を語らないまま、議論を進めています。
幸い、その目印を教える御言葉を、以前に学びましたステファノの説教のなかに見つけることができます。必ずしも聖書の専門家ではないステファノは、自分が確認する意味でも、その御言葉を語る。ステファノにとってそれは野暮なことではない。
使徒言行録7章37節(226頁)。このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました、ということで、ステファノは申命記18章15節の御言葉を語ります。神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。
この「立てられる」、「起こされる」という言葉です。
そこに、「復活する」という意味を、旧約の民は見ました。
それが究極の目印を教えてくれる御言葉です。救い主は復活する。
旧約聖書が約束している救い主、その「救い主」が、本当に、神が送った救い主であるかどうか、判別する目印は、復活する、ということです。
これは、なかなか示唆的なことでして、復活が、救い主を見つける究極の目印だとしますならば、救い主は生きているときには分からない、ということです。
この地上の事柄に、究極の答えはない、ということです。
それは、私たちも復活する、と聖書は教えるわけですから、その問題は、私たちにも援用できます。私たちは地上の生涯を一生懸命生きる。その評価が生まれる。が、その評価は、私たちが何者であるということの究極の答えではない、ということです。
自分が自分になす評価、他者が自分になす評価。それが、わたしという人間を決めるものではない。誰も分かっていない。神が見ておられるものがある。
神だけが、憐み深い神だけが見てくださっているものがある。
それが、私たちの希望です。
地上にある事柄がすべてではない。分からないことが残る。
究極の答えは、神だけがご存知の死の先にある、ということです。
イエスが救い主であるか否かは、復活なされたときに分かったことでして、それまでは分からなかった、ということです。
福音書が書いていることも、要するに、そういうことです。
イエスという方は立派だった、それは間違いないことです。
が、それで、イエスが、旧約の約束していた救い主であるのか、救いの言葉であるのか、イエスが生きている間には、誰も分からなかった、ということ。
分かった、というのは嘘なんです。そこに、救い主の究極の目印はないんですから。
今日のところの、27節をご覧ください。
エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを救い主と理解しないから、イエスを罪に定める、それは指導者たちだけではありませんでした。イエスの弟子たちもそうでした。パウロ自身もそうでした。理解していなかった、間違っていた。
救い主は、復活によってのみ理解される。ですから、地上の事柄においては、理解されないことによって、聖書の言葉は実現していったとパウロは言うわけです。
28節。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、やっぱり何もわかっていないまま、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。
こういうことがあって、しかしと、パウロが語りたい一点は、しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのですということ。
パウロはもうこれだけを語りたいんです。神はイエスを復活させられた。
復活が、救い主の究極の目印だからです。
その復活が、福音なんです。もう一度、32節、わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。
その福音とは、33節、つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。
救い主を送る、という神の約束は、神がイエスを復活させることにおいて、確かに真実であったと、確かなものであったと約束は果たされたと受け止めることができる。
そうして、パウロは、復活を指し示す御言葉を、もうみんなが知っている申命記18章からではなくて、専門家らしくと言いましょうか、その箇所もそう読めるんですね、というなかなか心憎い仕方で、詩編2編を挙げています。33節。
『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです。
神が、神の子を産んだ、新しい命を産んだ、すなわち、復活であるということです。
35節。そこで引用されているのは、詩編16編10節の御言葉です。
『あなたは、あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしてはおかれない』
神は、神の聖なる者を、救い主を、墓の中で朽ちるままにしておかれない。
神は、イエスを、復活の新しい命のなかに置かれた。詩編16編にある言葉を用いますと、右の御手から永遠の喜びを、永遠の命を与えられた。
聖書の専門家であるパウロは自然に、幾つもの、復活を約束した御言葉がでてくる。
その御言葉は、その救いの言葉はわたしたちに送られました、とパウロは言っていました。ならば、送られた人間はどう生きるのか。
イエスの復活、イエスが救い主であるという約束の成就を、どのように受け止めることが、人間のあり方であるのか、神が求める人間のあり方であるのか。
34節です。パウロは、イザヤ書55章3節の御言葉を引用しています。
『わたしは、ダビデに約束した、聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』
このところを、最後に見て、終わることにいたしましょう。
イザヤ書55章をお開きください。旧約聖書1152頁です。
その3節の、最後の行が、少し翻訳の問題がありますけれども、パウロの引用している言葉です。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
ダビデに約束した救い主が、復活において、本当に救い主なんだということが、誰の目にも明らかになる。そのときに、イザヤ書が求めることは、耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。ということです。
復活した救い主の言葉を、神の言葉として聞け、聞き従え、ということです。
このことは、申命記18章が求めていたことでもありました。
あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。
どうでもいい言葉を何でもかんでも聞く必要はありません。
しかし、本当の言葉は、救い主の言葉は、聞かなければいけません。
魂に命を得るために。イザヤ書55章2節では、あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。と言われています。
魂に命を得る、ということは、魂が楽しむということです。
生きている実感が湧く。ただ、呼吸をしているということではなくて、自分が生きている意味が分かったり、そうすると生きていて良かったなと思ったり、安心できたり、自分に向けられた神の愛が分かったり。
それは、復活した救い主の言葉を聞くことで、芽生えるものだ、というんです。
なぜなぜら、復活の救い主が告げる神の言葉は、イザヤ書55章8節、 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる、と言われるものだからです。9節、天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている、と言われるものだからです。11節、そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。と言われるものだからです。
あらゆる意味で、人間の考えを超えた神に期待すること、自分を愛し、救う神に信頼すること、その祈りを、神は裏切らない。神の約束はむなしく神のもとに戻らない。
ですから、復活されたイエス・キリストの言葉に聞き続けるんです。
それを、聖書は、立ち帰り、と呼んでいます。
6節、主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
そのように、神を求めること、7節、主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。
神は赦してくだる。愛してくださる。その福音を、私たちは聖書から聞きます。
私たちを救い、共にある神の熱意ある言葉が、私たちの前に置かれています。
私たちがなすことは、その言葉を聞いて、復活の主イエス・キリストを、自分の救い主と信じることです。
お祈りをいたしましょう。