「主イエス・キリストのご復活」

~キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きる~

 

マタイによる福音書28章1~10節 讃美歌148、483

1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

ゼファニヤ書3章14~17節

14 娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。15 主はお前に対する裁きを退け/お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。16 その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな/力なく手を垂れるな。17 お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」

 

本論

イースターをお祝いする朝を迎えました。

この年も、こうして主のご復活を礼拝においてお祝いすることがゆるされ感謝です。

主のご復活をお祝いするということ、それは教会にとりまして、復活の主イエスの御言葉を確かに受け取り、確かに味わうことです。

8節に、「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」という表現があります。

それは、私たちの信仰生活を的確に言い表す表現です。空っぽになったお墓を見た婦人たちは、そこにあらわされた神の御業に恐れながら、喜ぶ。

私たちの毎日にも、分からないこと、これからどうなるのかという不安、心の不調、体の不調、地上の歩みには恐れがつきものです。恐れることばかりです。

が、そこに神の御業を見るとき、信仰者は喜ぶことができます。

そこに、神は確かに生きておられる、神は生きて、力を持っておられる。

そのなかに自分は生きていることを見るときに、信仰者は喜ぶことができます。

恐れがまったく消え去るわけではありません。不安がなくなるわけではありません。

 

ですから、恐れながら、しかし、大いに喜んでもいる。

その経験を、復活の朝に、最初に婦人たちがなすことをゆるされました。

やがて、婦人たちの知らせを聞いた弟子たちも、経験します。

今日はお読みしませんでした、この後の17節のところです。

ガリラヤで、弟子たちは、復活のイエス様にお会いすることがゆるされます。

17節、そして、イエスに会い、ひれ伏した。

イエス様が生きておられることが嬉しくて、ひれ伏した。礼拝をした。

が、しかし、同時に、疑う者もいた。

信じながらも疑い。恐れながらも喜んでいる。

それが、復活の主と共に生きる信仰生活のあり方です。

しかし、だから、復活の主に出会い続けることを、教会は求めました。

日曜日に集まるようになったのは、そのためです。

ユダヤ教の安息日は、今の暦にしますと、土曜日です。

それまでは、弟子たちも、土曜日に、安息日に、シナゴーグで礼拝をしていました。

けれども、日曜日の朝に、イエス様がご復活なさいましたので、その復活のイエス様にお会いするために、その御声を聞くために、教会は日曜日に礼拝をささげるようになりました。そうして、今に至ることになります。

私たちも今日、復活のイエス様の御声を聞くために、ここに集ってまいりました。

マタイによる福音書の御言葉のなかに、復活のイエス様の御声を聞きます。

が、そうして、福音書に目をやりますと、復活のイエス様が仰るのは、特別ではない、平凡な言葉です。何とも間の抜けていると思えてしまいます。

9節、「おはよう」。これが、復活のイエス様の第一声です。「おはよう」。

死した人が蘇る。神の御子が死の淵からご復活なさる。

その劇的な出来事からしますと、その第一声の平凡さは、逆に驚きを与えられます。

「おはよう」。

ルカによる福音書、ヨハネによる福音書は、この復活のイエス様の言葉を、「あなたがたに平和があるように」と記します。そちらの方が少しカッコ良い感じもします。

が、実はいずれも、イエス様が発せられた言葉としては同じです。

ヘブライ語の「シャローム」です。挨拶の言葉です。便利な言葉でして、「こんにちは」、「おはよう」、「こんばんは」、全部、「シャローム」でいけます。

で、その意味が、「平和があるように」、「平安があるように」ということです。

要するに、すべての福音書が同じことを言っているんです。

復活のイエス様は、シャロームと言われたんだ、ということです。

そして、特に、マタイは「平和があるように」という、その言葉の意味以上に、その言葉が挨拶であった、という、その点を重要視しているということです。

その意味を、この朝、私たちは受け取りたいと願います。

 

復活のイエス様が「おはよう」と仰る、私たちにも言ってくださる、その意味です。

さて、復活のイエス様の第一声が「おはよう」であるとして、それでは、地上のご生涯の最後の言葉は何であられたのか。ちょっと思い出してみましょう。

27章46節です。 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

これが、マタイによる福音書が記します、十字架のイエス様の最後の言葉です。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

「なぜ」とありますけれども、「レマ」と言われた、そのニュアンスをくみ取るならば、「何のために」という方が正確です。「わが神、わが神、なんのために、わたしをお見捨てになったのですか」。

「なんのために」、その叫びをもって、十字架のイエス様は、すべての、誠実に苦悩する人間の代表者となられました。すべての人間には苦しみがあります。しかし、すべての人間が誠実に苦しむわけではありません。

ごまかしたり、忘れようとしたり、誰かのせいにしたり。

が、身にふりかかる苦しみを、自分に与えられたものとして、誠実に引き受ける人間がいます。天災や戦災や、あるいは親しい人との別離や、自分の病や死に直面する、そのときに、誠実に苦しむ人間は問う。神に問わざるをえない。

理由があれば耐えられる苦しみがあります。

そこに意味が与えられるならば引き受けられる苦しみがあります。

イエス様は十字架上で、父なる神に問うてくださいました。

「わが神、わが神、なんのために、わたしをお見捨てになったのですか」。

それは、神の御子であるイエス様が、神の側にではなく、人間の側に徹底して立たれたということです。人間の代表として、叫んでくださった。

誠実に苦しむ、すべての人間の代表として、その人間との連帯のしるしとして。

が、その答えが、神からの答えが、十字架上のイエス様に与えられませんでした。

そのすぐ後、50節、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

それが金曜日の午後三時のこと。日が暮れると日が変わり、土曜日になりますと、安息日ですから、労働をしてはいけないということで、大慌てで、イエス様はお墓に葬られ、そうして、土曜日の安息日を迎える。

そして、今日、お読みした1節に繋がります。さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。

マルコによる福音書を見ますと、この女性たちがお墓に行ったのは、「イエスに油を塗りに行くため」(16:1)であったと記されています。つまり、日が沈もうとするな

 

かで、ちゃんとお葬式をすることができなかったので、そのために行ったと。

そのことを踏まえたうえで、マタイが注目することは、女性たちが「墓を見に行った」ということです。イエス様の遺体を見に行ったんです。遺体に、その死に、「わが神、わが神、なんのために、わたしをお見捨てになったのですか」の答えが、何らかでも刻まれていないかと思って。その死の中に意味が表されているのではないかと。

が、お墓に行って、婦人たちが、主の天使に言われるのは、6節、「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」ということです。

「置いてあった」ということは、今はもうない、ということです。

婦人たちが見るのは、イエス様の遺体がない、空の墓です。

そう告げた主の天使は、天から降って来たと言われており、その姿は稲妻のように、すなわち光り輝いていたと言われており、衣は雪のように白かったと言われています。

「雪のように白い」。白さは光の色、天の御国の色です。

罪が全くない、しみもしわもない、救いに覆われた色です。命の色でもあります。

要するに、お墓の中に、まったく死の気配がなかったということです。

そこはまるで、天の御国のように、命の気配に満ち溢れていた。

天使は婦人たちに言います。「恐れることはない」。

聖書の中で重要な言葉です。なぜ、「恐れることはない」のか。

今日、お読みした旧約聖書のゼファニヤ書でも言われていました。

3章15節、お前はもはや、災いを恐れることはない。

なぜか。それは、イエスラエルの王なる主はお前のただ中におられるからです。

16節、シオンよ、恐れるな。力なく手を垂れるな。

なぜか。17節、お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。文字通りに訳すならば、「救いを与えられる」、「イエスを与えられる」。

天使が、神が、聖書が、「恐れるな」と言いますのは、神が、わたしの神が共に在ってくださるからです。私たちの中に、私たちの人生の中にあって、勝利を、救いを、イエスを与えてくださるからです。だから、恐れるな。

どこに、救いを探すのか。どこに、イエスを探すのか。

墓の中にではありません。2000年前の墓の中にではありません。

お前の主なる神はお前のただ中におられる、それが神のメッセージです。

神は教会のなかにおられる。教会のなかだけではありません。

仕事場に、学校に、家庭の中に、お前の主なる神はお前のただ中におられる。

だから、恐れるな。神は死んでおられるのではない、生きておられる。

生きて、私たちの人生の中に共に在ってくださる。

天使は婦人たちに、ガリラヤに行くように命じます。

 

弟子たちに、ガリラヤに行くように伝えなさい、と命じます。

そこでお目にかかれる。そこで、あなたたちは見る、と言われています。

墓のなかに、死のなかに、復活のイエスは見つけられません。

ガリラヤで、あなたたちは、復活のイエスを見る、と言われます。

どうして、ガリラヤなのでしょうか。ガリラヤはどういう場所ですか。

そこが、始まりの場所だからです。

そこが、最初に、弟子たちが、イエス様と出会った場所だからです。

マタイは4章15節、16節のところで、イザヤ書を引用して、こう記していました。

異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ。

信仰生活を続けていますと、光が光として見えなくなることがあります。

暗闇に住む民になってしまうことがあります。

その時にはスタートラインにもう一度、立つことです。

難しいことは置いておいて、復活のイエス様に出会い直すということです。

すなわち、恐れるな、神は私の人生の只中におられる、ことを思い出すことです。

弟子たちにとりまして、それがガリラヤという場所でした。

そうして、8節です。8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

そこで、9節、すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

婦人たちは、弟子たちに伝えなきゃと、急いで走り出す。

その婦人たちの目の先に、復活のイエス様が立っておられたというんです。

すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われた

すると、見よ、イエスが迎えてくれて、「おはよう」と言われた。

イエス様は、ぼうっと立っておられるのではない。

婦人たちが見たのは、恐れながらも喜んでいる自分たちを迎えてくれるイエス様です。そのイエス様が、「おはよう」と言ってくださるんです。

そして、このことが、十字架上でイエス様が発せられた、「わが神、わが神、なんのために、わたしをお見捨てになったのですか」という問いの、イエス様御自身が教えてくださる答えです。

「おはよう」。もう夜は、暗闇は、死は、もう全部引き受けた。担い終わった。

「なんのために」。それは、人間の夜を、人間の暗闇を、人間の死を、引き受けるためでした。神の子が人の子として、人間の代表として全部引き受けるためでした。

だから、「おはよう」。もうあなたたちを覆う暗闇はない、明けない夜はない、死がすべての終わりではない。だから、「おはよう」。もうあなたが神に見捨てられるなんてことはない。神との交わりは絶たれていない。それは神の御子が引き受けた。神の

 

御子が迎えてくださる。だから、「おはよう」。

そうして、イエス様も言われます。「恐れることはない」。

天使が告げた言葉をイエス様も仰る。

が、天使が告げなかった言葉も、イエス様は仰る。

天使は、「確かに、あなたがたに伝えました」と言ったんですけれども、ちょっと抜けていたことがあるようです。

復活のイエス様が仰います。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。

天使が言ったのは、弟子たちに告げよ、ということでした。

イエス様は違います。わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。

わたしの兄弟たち。

弟子たちは、十字架を前にして、みんながイエス様を裏切りました。

あんな人は知らない、と言いました。その関係を、交わりを断ち切った。

まさに、闇の中に、死のなかに、うずくまっている。

が、その者たちを、復活のイエス様は、「わたしの兄弟たち」と招かれます。

それが、神の懐の大きさです。救いの、恩恵の大きさです。

わたしは赦されない、わたしは神に見捨てられている、そんな人間は、いません。

それは、自分でそう決めているだけです。

それは、神に赦されていないのではない、神に呪われているのではない。

自分で自分を赦せていないだけです。自分で自分を呪っているだけです。

神が、復活のイエス様が、私たちを招くのは、「衣は雪のように白かった」という赦された世界です。白い、光り輝く、天の御国の世界です。

私たちはなお、与えられた地上の生の中で、しかし、聞き続けるのです。

復活のイエス様の御言葉です。「おはよう」。

神はいつも、私たちの夜に光を差し込んでくださいます。

恐れることはない。共にあるからと。「おはよう」と。

私たちはいつでも、復活の朝に、神の救いに、生きるよう招かれています。

そして、私たちも「おはよう」、「恐れることはない」と言う者になる。

イエス様が、ここで、婦人たちに、先に会われたのは、婦人たちの言葉がまず、「おはよう」であるためです。このために、イエス様は十字架にかかれたんだと。

イエス様に、「おはよう」という朝に迎え入れていただた者たちは、「おはよう」と、その白い朝へと、隣人を招く者として生きます。共に「おはよう」を聴くためにです。

お祈りをいたしましょう。