「主イエスのエルサレム入城」

~最後の一週間の始まり~

 

マタイによる福音書21章1~11節 讃美歌130、534

1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

創世記49章10~12節

10 王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。11 彼はろばをぶどうの木に/雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。彼は自分の衣をぶどう酒で/着物をぶどうの汁で洗う。12 彼の目はぶどう酒によって輝き/歯は乳によって白くなる。

 

本論

この主の日のより、受難週に入ります。

イエス様の地上でのご生涯の、最後の一週間を特別に覚えるときです。

その始まりの主日を、教会では伝統的に、「枝の主日」、「棕梠の主日」と呼んできました。今日、お読みした8節の御言葉からです。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。

まるで、戦いに勝利した王を迎えるようにして、人びとは木の枝を振って、棕梠の木の枝を振って、イエス様をお迎えしました。

それが日曜日のことです。木曜日が、最後の晩餐です。金曜日が十字架。土曜日がお墓のなか。そして、次の日曜日に、ご復活された。

こういうイエス様の一週間を覚えるのが受難週です。

私たちもまた、十字架のイエス様をお迎えする。

それは、9節にある御言葉を、自分の叫びとする、ということです。

9節です。ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。

いと高きところにホサナ。

この叫びを、この一週間の私たちの言葉にすること、そのために、この朝は、この

叫びの意味を学んでいきたいと思います。

「ダビデの子」という言葉は、救い主をあらわす呼び名のようなものです。

人びとは、「ダビデの子」という言葉をもって、救い主を待ち望みました。

そして、イエス様に「ダビデの子」と呼びかけるということは、「イエスよ、あなたが、私たちの救い主です」という賛美に、告白になります。

「ホサナ」は、文字通りには「どうか救ってください」という意味のヘブライ語です。今日、招きの言葉でお読みした、詩編118編25節に、「どうか主よ、わたしたちに救いを」という言葉がありました。「どうか、救いを」、それがホサナです。

「ホサナ」の「ナ」が「どうか」、「今すぐ」という切実な願いを意味する言葉です。

今、なんとか、救ってください。それが「ホサナ」という叫びです。

ダビデの子にホサナ。救い主よ、どうか、わたしを救ってください。

が、それだけですと、後ろのホサナが分かりません。「いと高きところにホサナ」。

“いと高きところに、救ってください”。しっくりきません。

「ホサナ」という言葉は、意味としては、「どうか、救いを」なんですけれども、人びとがそう願い、口にするうちに、次第に賛美の意味を持ち始めます。

「栄えあれ、栄光あれ」という賛美の意味を持ち始めます。

イエス様の時代にはもうそうなっていました。ですから、「いと高きところにホサナ」といいますのは、あのクリスマスのように、天使たちが歌った「いと高きところには栄光、神にあれ」という、あの歌とほとんど意味は同じということになります。

これは感覚として分かります。

「どうか救いを」と願う相手は本当に信頼している相手です。栄光を帰す相手です。

栄光を帰する方であるからこそ、私たちは自分の願いをその方に託します。

ホサナと叫ぶ。どうか救いをと叫ぶ。

叫んでいるその時点で、既に、その人は、いと高き神に賛美をささげています。

そうなりますと、私たちがなすべきことは、ホサナと呼びかける、ダビデの子に対して、いと高き神に対して、その焦点を、より鮮明なものにしていくことです。

ダビデの子がどういう救い主であるのか。

いと高き神はどういう救い主を私たちに送ってくださったのか。

私たちは、どういう救い主を、私たちの心に、生活にお迎えするのか。

それは救い主御自身が、聖書それ自体が教えてくれていることです。

今日、お読みしたところには、イエス様がエルサレムに入城される、その直前に、

 

一つのお話が記されていました。不思議な、面白い、重要なお話です。そこで、イエス様御自身が、自分はどういう救い主であるかを、お示しになっておられます。

1節からです。「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲという村にやって」こられる。それがガリラヤ地方からエルサレムに入っていかれる道順です。そこまでくると、「向こうの村」が見える。

その村の名前をマタイは記さず、ちょっとミステリー仕立てにしていますけれども、マルコによる福音書を読めばわかります。ヨハネによる福音書を読めばわかります。

ベタニアです。あのマルタとマリア、そしてラザロがいる村です。

イエス様がよく知っている村なんです。というより、エルサレムに行くときには必ず、その村に寄っていく、その村で泊まっていく、勝手知ったる場所です。

それを押さえておきませんと、その後の意味が分からなくなってしまいます。

イエス様が「向こうの村へ行きなさい」と仰った、その村が、イエス様も知らない、弟子たちも知らない、それで、そこにろばがつないであるのを見通しておられる。さらに、「主がお入り用なのです」と村人に告げると、すぐ渡してくれる。

さすが神の子であると、イエス様は、千里眼のように何もかもを見通しておられたんだというよく分からないお話になってしまいます。

その村はベタニアです。何度も何度も行ったことがある、泊ったこもがある、親友が住む村なんです。村に入ると、道がどうなっていて、どこにろばが繋がれていて、何なら、もうろばをかりることも話がついている、そういう村です。

そういう「向こうの村へ行きなさい」、ろばを見つけたら「主がお入り用なのです」と言いなさいと弟子たちに言われますのは、いわば、ベタニアを一つの舞台として、わたしはこういう救い主なんだということをあらわす、預言者的な行為です。

4節にあります。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。その預言者の言葉が5節にあります。ゼカリヤ書9章9節の御言葉です。

しかし、今日、旧約聖書でお読みしたのは創世記49章の御言葉でした。

その箇所が、ゼカリヤ書9章9節の下敷きとなる御言葉だからです。

創世記49章の御言葉を受けて、ゼカリヤ書9章の預言があります。

ですので、創世記49章が重要です。もう一度お開きください(旧約90頁)。

もう創世記のほとんど最後のところです。クライマックスです。

ヤコブの遺言がずっと続く箇所です。

その49章10節の一番最後の行に、不思議な言葉がでてきます。

ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。

「シロ」という言葉、「シロ」という人物は聖書の中でここにしか出て来ません。

ですから、謎なんです。が、どうやら、「シロ」が神の約束しておられる救い主で

 

あるということが分かります。そういうふうに、読まれていきます。

ちょうど今、私たちが目を向けている10節から、目線を下に送って、少し左を見ると、18節に、これも唐突に挟み込まれる言葉があります。

主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む。

全然、文脈と関係ないんですけれども、しかし、だからこそ、神がヤコブの口に与えられた言葉として、大切にされてきました。

主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む。

この救いを実現してくれるのが「シロ」である、「シロ」たる救い主である。

その「シロ」は、「王笏はユダから離れず」。「諸国の民は彼に従う」。

「シロ」は、王として来られる救い主。

それが、創世記49章の読み方となります。

が、問題は、とにかく「シロ」という言葉はここにしか出て来ませんので、「シロ」が何か、何者かがわからない。

ついにシロが来て、と言われましても、その手掛かりがない。

手掛かりは、11節です。彼はろばをぶどうの木に/雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。「シロ」は何者か分からない。しかし、ろばをぶどうの木につないだ人物。

ろばの所有者です。所有者ですから、主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む。どうか、救ってくださいという願いに応えるときには、つないだ縄をほどく人物です。

ろばがつながれた縄がほどかれたとき、それが救いの時であるということです。

ですから、イエス様はちゃんと、「ろばがつないであり」、「それをほどいて」と、ちゃんと言われています。それが「シロ」の目印だからです。

ろばの縄をほどくというのは、今や、救いの時。主よ、わたしはあなたの救いを待ち望むというヤコブの願い、神の民の願いが成就する時である、ということです。

「主がお入り用なのです」という言葉も、イエス様は丁寧に語っておられます。

直訳しますと、「その主が、それらの必要をもっている」となります。

「その主が」と言われています。「その」は前にあるものを受けます。前にあるのはろばです。ですから、その「主」は、「ろばの主」、「ろばの持ち主」ということです。「ろばの持ち主が、ろばを必要としています」。それがイエス様の言葉です。

ろばの持ち主、すなわちそれはシロであり、シロはわたしである、ということです。

「キリストの自己啓示」という言い方がなされますけれども、要するに、ここでイエス様が仰っていることは、わたしがシロ、王である救い主である、ということです。

ならば、その救い主はどういう王であるのか。それが今日の最後の問いです。

シロという救い主、イエスという救い主は、どういう王であるのか。

そのことを教えてくれるのが、創世記の約束のうえに重ねられたゼカリヤ書9章の

 

御言葉です。マタイの引用でお読みしますと、『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』

ポイントとなるのは、「柔和な方」という言葉です。

他の情報はすべて創世記にありました。

「お前の王」、「ろばの子」、それは創世記にありました。

そこに、「柔和な方」という情報が新しく開かれました。

救い主である「シロ」は、「柔和な方」である。

ただ、「柔和」という言葉は少し意味が取りづらい、色々と拡がりを持ちます。

ゼカリヤ書9章にある言葉をそのまま見ますと、「高ぶることなく」と記されています。「高慢」ではない。あるいは「偉くない」。「低い」。聖書を読む人が、最も危機馴染みのある言葉で言いますならば、「貧しい」ということです。

聖書が言う「貧しさ」は第一義的には経済的なことを指しません。

根本的に、希望がない、ということです。喜びがない、ということです。

悩んでいる、ということです。苦しんでいる、ということです。

救いがない、この世にカミもホトケもあるものか、と思っている。

虚しさを知っている。お金が、地位や名誉が、心のすき間を根本的に埋めてくれないことを知っている。望みのなさ、寄る辺なさ、それが聖書の言う「貧しい者」です。

「柔和な方」は「貧しい者」です。

救い主は「王」として来られる。その「王」は「貧しい者」である。

それが、ゼカリヤ書9章によって新しく聞こえてきた約束です。

また、そこに、救い主が「ダビデの子」と言われる大きな理由の一つがあります。

ダビデは「王」でした。同時に、やはり「貧しい者」でした。

戦争から戦争に明け暮れた生涯です。部下の裏切りをいつも気にしていなければいけない。家庭生活は破綻していました。子どもたちとも打ち解けて話せない。ついには息子が謀反を起こして城を追い出される。また、その息子を打たなければいけなかった。神様との関係においても悲願であった神殿建築は最後までゆるされない。救いを味わうことがなかった。ダビデの最後の言葉、遺言がサムエル記下23章に記されています。「わたしの救い、わたしの喜びを、神は芽生えさせてくださる」。これから、芽生えさせてくださるのであって、自分が地上を去った後に芽生えさせてくださるのであって、ダビデ自身が地上の生涯で救いを経験するというものではない。

ダビデこそが「王」でありつつ、「貧しい者」として生きた人です。

そのあり方が救い主のモデルなんです。その呼び名が「ダビデの子」です。

イエス様が、子ろばに乗って、エルサレムに入っていかれる。

それは、わたしが創世記が約束していた「シロ」という救い主、王であるという救い主であるということ、ゼカリヤ書が預言していた「貧しい者」たる救い主であるこ

 

とを、イエス様御自身が、人びとの前に明らかにされた、ことでした。

その救い主に、ダビデの子にホサナと願いを託し、いと高きところにホサナと賛美を送り、お迎えするとは、どういうことなのでしょうか。

それは、私たち自身が「貧しい者」であることを認め、そこに立つということです。

自分は悩む人間であることを。苦しむことが持っている人間であることを。

実は、お金を、地位を、名誉を、それが必要という以上に執着していることを。

人よりも偉く、美しく、良く見えたいと思っていることを。

神を信じているふりをしながら、その実、いざとなれば神に祈ることを後回しにしていることを。神に信頼することを人生の根本に据えていないことを。

拭えない虚しさを、望みのなさを、寄る辺なさを密かに抱えていることを。

それらのことを、率直に認めるのが、「貧しい者」です。

いつもは、たいがいは、誤魔化しています。見栄を張って生きています。

何とかなるだろう、誰かが何とかしてくれるだろうと高をくくっています。

本当に頼るべきものに頼らない、頼るべきではないものを希望とする。

それは「貧しい者」ではありません。

自分の一番見たくない部分をあえて見つめること、それが「貧しい者」です。

救い主が「貧しい者」として、来られるのは、「貧しい者」の友となるためです。

聖書全体の焦点は、「貧しい者」に注がれます。

希望がない者の希望となるために、喜びのない者の喜びとなるために、神はシロという救いを私たちに送ってくださいました。

イエス様は、わたしがその「シロ」であることを教えてくださいました。

この一週間、私たちは「貧しい者」として歩みを重ねます。

それが、「貧しい者」として来てくださった救い主をお迎えするということです。

「貧しい者」として立つときに、あるいは倒れ伏すときに、私たちは知ることができます。このわたしのところに、救い主は来てくださった。

そのときに、心から言うことができるはずです。

ダビデの子にホサナ。どうか救ってください。同時に、主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。神にのみ栄光あれ。

この叫びが、この一週間の、私たちの言葉です。

お祈りをいたしましょう。