「宣教師サウロの誕生」

~礼拝のなかで聖霊が告げたこと~

使徒言行録13章1~3節 讃美歌178、219

 

1 アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」3 そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。 エレミヤ書1章4~10節 4 主の言葉がわたしに臨んだ。5 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」6 わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」7 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。9 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。10 見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」

 

■ 本論

前回、使徒言行録12章と13章の間には明確な線が引かれている、というお話をいたしました。 教会は、聖霊に導かれ、福音を地中海世界へと届ける、という志が与えられました。 復活のイエス様が仰った「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)という御言葉に生きること、復活の主の御言葉が導く世界のなかに、教会はようやく足を踏み入れていくことになります。 そうしますと、必然的に、使徒言行録の視線は、エルサレムを中心に、ということではなくて、アンティオキアに、あるいは、パウロを中心としました宣教団にあたるということになります。 エルサレムの教会がもうまったく出てこない、というわけではないんですけれども、この後、使徒言行録の記述はもっぱら、パウロたちを追いかけていくことになります。 それが、13章以降に記されていることです。 まずは、13章と14章に記されています、パウロの第一次伝道旅行の記述を追いかけます。パウロは都合三回の伝道旅行をなすことになりました。 で、その旅の道順は、聖書の後ろの地図に記されていますけれども、最初の伝道旅行は小アジアの地域を巡ることになります。 まずは、そのところを追いることにいたしましょう。 今日のところで、私たちが学びますことは、アンティオキアの教会は、どのようにして、バルナバとパウロを福音宣教へと送り出したのか、ということです。 宣教の業は、宣教師一人ががんばれば良いというものではありません。 それは、教会の業です。教会が聖霊に導かれて、なす業です。 「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)という御言葉に生きるのは、宣教師個人ではありません。教会が復活の主の御言葉に生きるのです。 さて、どのように、バルナバとパウロは、アンティオキアの教会から送り出されたのでしょうか。使徒言行録が記すのは、礼拝の場面です。 ただ、通常の、主日の礼拝とは、少し様子が違うようです。 ここで、まず1節のところで、アンティオキアの教会の中心的な働きを担う5名の人物が一人ひとりの名前と共に記されています。 最初に記されますのは、バルナバ。おそらくは、彼が、このリーダーたちの最年長者でして、エルサレムの教会から派遣されたという意味でも、アンティオキアの教会の最終的な責任を担っていたと考えられます。 次に、ニゲルと呼ばれるシメオンです。シメオンはユダヤ人、ヘブライ語の名前です。ギリシア語読みするとシモンになります。「シェマー・聞け」という言葉からきた名前ですから、聖書にもよく出てくる名前です。 実は、この人物と、ルカによる福音書23章26節にでてくるキレネ人のシモンが実は同一人物ではなかったかと考える伝統があります。キレネ人のシモンと言いますと、イエス様の十字架を背負うことになったキレネ人シモンです。あの人がアンティオキアの教会のリーダーなっていたとしますと、なかなかドラマチックな展開です。 決定的なことは分からないんですけれども、どうしてそう考えられるかと言いますと、このシメオンが「ニゲル」という名前も持っていたからです。昔の人は幾つかの名前を持っているものです。「ニゲル」と言いますのはラテン語で、「黒い肌」を意味しますので、キレネから、すなわち北アフリカのリビアからやって来たのではなかったかと考えられるんです。ともかく、シメオンということですから、ユダヤ人であることは間違いないんですけれども、同時に「ニゲル」というラテン語の名前も持つということで、この人は外国の風を浴びた人だということが知らされます。 次に、この人は明確にキレネ出身と記される、キレネ人のルキオです。 ラテン語の名前ルキウスをギリシア語読みすると、ルキオになります。 「光」という意味です。このキレネ人ルキオこそ、11章20節に記されていました、ギリシア語を話す人たちに積極的に話しかけて、イエス様の福音告げ知らせた人であっただろうとされます。 伝道部門の特攻隊長と言いますか、伝道委員長と言いますか、非常に元気の良い、ムードメーカー的な存在であったと考えられます。 次に記される人がも非常に面白い。領主ヘロデと一緒に育ったマナエン。 このヘロデは「領主」と記されていますので、12章にでてきていました「ヘロデ王」・ヘロデ・アグリッパではなくて、洗礼者ヨハネの首を切ったヘロデ・アンティパスのことです。「一緒に育った」ということは、乳母が一緒であったのか、血の繋がりまであったのかはわかりませんけれども、いずれにしても、ヘロデ王宮のかなり深いところまで福音は届いていて、キリスト者になっているというのは驚きです。 そういえば、ルカによる福音書8章3節に、「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」という女性が一緒に行動しているという記述があります。「家令」と言いますと、家の金庫番です、お財布を握っている人、その妻がイエス様の弟子になっているということで、かなり早い段階で、福音がヘロデ王宮に入り込んでいたようなんです。 12章のところで、ヘロデ・アグリッパが過度な警備をペトロに課したのも、こういう事情があったからかもしれません。 こういう人も、アンティオキアの教会で中心的な働きをしていました。 そして、サウロ、後のパウロです。かつて、「ヘブライ人の中のヘブライ人」(フィリ3:1)を自認し、「ファリサイ派の一員」(同)であったパウロですけれども、しかし、タルソス出身という異邦人世界の風も知っていて、ギリシア語を巧みに操ることができて、ローマの市民権も持っているという、実は、なかなかの国際派でもありました。 このような国際色豊かなリーダーたちが、「預言する者」、すなわち、御言葉を教える「教師たち」として、アンティオキアの教会を導いていました。 そして、この人たちが、一つのところに集まって、礼拝をしている、というのです。 2節、彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。 1節の終わりのところに、新共同訳は「サウロなど」と、「など」という言葉を入れています。しかし、元のギリシア語には「など」という言葉はありません。 この5人の名前を記しているだけです。 そして、2節、彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げたと続けていますから、この「彼ら」は、基本的に、この5人ということになります。 もちろん、他にもいたのかもしれませんけれども、使徒言行録の意図としては、この5人が、主に礼拝をささげていた、ということです。しかも、断食を伴う特別な礼拝をささげていた、ということです。 そもそも、ここで使われています「礼拝(λειτουργέω)」という単語は新約聖書全体を見渡しても、非常に珍しい言葉です。 ちょっと意外な感じがしますけれども、新約聖書の中で、この箇所を含めても3回しか使われていません(他に、ロマ15:27、ヘブ10:11)。 聖書のなかで、礼拝行為は、通常、通常、「神様を賛美した」とか、「祈った」とか、「ひれ伏した」とか、身体的な動きが記されます。 ですから、「礼拝する」という言葉は案外、用いられないんです。 ここで使われています「礼拝」という単語、もともとのギリシア語の意味は、自己負担で公的職務を遂行する、献身する、というものです。 そこから、祭司やレビ人の務めを意味する語としても用いられました。 その点からしましても、ここに記される礼拝が、通常の意味での主日の礼拝ではない、私たちの感覚ですと、役員会に近いような、そういう趣のあるものです。 教会では、会議も礼拝行為としてなされるわけですから、この記し方は、まさに教会の会議のあり方を教えているとも言えます。 そういう礼拝をもって、断食をもって、また、聖霊の御告げを受けるという仕方において、アンティオキアの教会は、バルナバとパウロを世界宣教へと送り出す。 逆に言えば、その決断は、そんなに簡単なものではなかった、ということです。 アンティオキアの教会においても、ためらうものであった。迷うものでもあった。 当然です。 教会の精神的支柱たるバルナバ、そして御言葉を教える中心的な働きを担うパウロ、その教会の核を、アンティオキアの教会としては、失うわけです。 それは、教会としては危機的な状況を迎えることを覚悟するということです。 おそらくは、この宣教の志は、アンティオキアの教会が何らかの要請を受けることで与えられ、計画が立てられたものです。 バルナバとパウロが、宣教の場所として向かうのは、キプロス島です。 11章20節に記されていましたけれども、アンティオキアで積極的に伝道の働きを担ったのは、キプロス島やキレネから来た人たちでした。 キプロス島との繋がりが最初から、アンティオキアの教会にはあるんです。 ちなみに、バルナバもキプロス島出身であることが4章36節に記されていました。 ですから、バルナバが行かなければいけない。 そういうキプロス島からの要請が、うちの島に来て、福音を伝えてほしいという要請が、アンティオキアの教会に届けられて、それを本当に受けるのか、ここに記される5人が、ひざを突き合わせ、悩みながら、祈りながら、意見を交わす。それが、ここに描かれていることです。 いろいろな意見が交わされたはずなんです。 ぜひ、行くべきだという積極的な意見もあれば、いや、やめておいた方がという消極的な意見もあったはずです。あるいは、バルナバとパウロではなくて、他の人でもという意見もあったかもしれません。その人では、あまりに、アンティオキアの教会が被るダメージが大きい。 そういう喧々諤々な議論が交わされるなかで、使徒言行録が記すことは、彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げたということです。 「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」 そういう超自然的な神の御声が聞こえたと受け止めても良いでしょうし、あるいは5人のリーダーが意見を交わし合うなかで、ここに記された受けとめをすることができたと受け止めても良いでしょう。 聖霊は、人は用いて、会議をなす信仰者を用いて働かれるものですから。 主が、「わたしのために」と仰っている。 「わたしが前もって」と仰っている。 ここで、「仕事」と訳されました単語は、聖書のなかではたいてい、「業」と訳されます。神の御業というときの「業」です。 私たちは誰もが、この「業」を行うために、生きるように召された存在です。 それは、お金を稼ぐ・稼がないこととは、直接には結び付かないものです。 一人ひとりに、神様が「前もって……決めておいた」業がある。 そのために、一人ひとりが、神様に選び出されるんです。 教会のなかでは、牧師になることを「献身する」と言いますけれども、言葉の意味合いからしますならば、牧師に限りません。 教会のなかでどのような働きを担うのか、それも献身です。 どのような職業に就くのか、それも献身です。 結婚をするのかしないのか、どういう家庭を築くのか、それも献身です。 その献身は、「前もって……決めておいた」、神が選び出されることへの応答としてなされるものです。どう生きるのか、どういう仕事をするのか、それは、神との関係のなかで、文字通り「礼拝行為」として応答されていくものです。 宗教改革者のマルティン・ルターは、神から選び出されている、神から呼ばれているという、極めて宗教的な意味合いの強い、ゆえに、聖職者の業だけに宛てられていた「ベルーフ」という単語を、あらゆる意味での職業、あえて言うならば「世俗の職にも宛てて用いました。現代ドイツ語では「ベルーフ」といえば「職業」を意味します。ルターの意図は、神が召し出してくださる業に、聖なるもの、俗なるものという区別はなく、すべての働きが神への応答としてなされる必要があるし、また、そうであるならば、すべての働きは、神の御目に尊い、というものです。 アンティオキアの教会は、バルナバとパウロを中心としてなされる世界宣教が、そのような仕事であること、神が前もって決めておいた仕事であることを受けとめました。神の事柄として、受け止めた。 その受け止めを、使徒言行録は「聖霊が告げた」という仕方で記す。 それは、アンティオキアの教会が正当に、神に栄光を帰し、神への応答として、決断をなした様を描き出しています。決して簡単な決断ではない。 聖霊の御告げを聞いても、なお断食して祈り、という時を経なければ難しい、さらに、教会の悩みは、最後の「出発させた(ἀπολύω)」という言葉にも表されています。 その言葉は通常、「釈放する・解放する」を意味する単語です。 バルナバとパウロには、神が前もって決めておられた働きがある。 だから、アンティオキアの教会だけに縛り付けておいてはいけない。 解放する、解き放つ。 そういう表現が取られるほどに、教会としてはやはり苦しかったわけです。 しかし、神が「わたしのために選び出し」たということに、教会は従うんです。 3節、そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。 「二人の上に手を置いた」のは、神の祝福を祈ってです。 神の祝福のもとに、残る3人はアンティオキアで、自分たちに与えられた仕事をなす、バルナバとパウロは遣わされた地で、自分たちに与えられた仕事をなす。 共同の働きをこれからもなし続けるためにです。 ここに集う5人には、それぞれに教会を思う思いがあったはずです。 しかし、そういう思いを、わたしはこう思うんだという思いを先走らせていましたならば、教会の歩みはままなりません。教会に集う者の願いは神の栄光を見ることです。神の栄光は、それぞれが神の招きに従っていく、神の御言葉に応答していく、そうして自分の意志が神の御言葉の後に退いていく。そのときに初めて、神の栄光は立ち現われていくものです。 その第一歩を、キリストの教会は踏み出したのでした。 お祈りをいたしましょう。