「ヘロデ王の死」
~神に栄光を帰さない生と死~
使徒言行録12章20~25節 讃美歌239、262
20 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。21 定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、22 集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。23 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。24 神の言葉はますます栄え、広がって行った。25 バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。
イザヤ書66章18~24節
18 わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。19 わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。20 彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。21 わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。22 わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。23 新月ごと、安息日ごとに/すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと/主は言われる。24 外に出る人々は、わたしに背いた者らの死体を見る。蛆は絶えず、彼らを焼く火は消えることがない。すべての肉なる者にとって彼らは憎悪の的となる。
■本論
聖書を読んでいますと、どうして、こういうことが書かれているのか、よく分からないと思わせられる記述に出くわします。
聖書は神の言葉です。神を教える書物です。
神を教えることで、神が造られた世界のことを、人間のことを教える書物です。
宗教改革者カルヴァンが言うように、神を知ることと人間を知ることは一つのことです。その一つのことを、私たちは聖書から学びます。
ヨハネによる福音書の冒頭にあります。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(1:1)
言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(1:4)
光は暗闇の中で輝いている。(1:5)
もうこの言葉があれば生きていける力を、救いを与えてくれるのが聖書の言葉です。
そういう点からしますと、今日、お読みした箇所はどうでしょうか。
ヘロデ王の死が、しかも「蛆に食い荒らされて息絶えた」という無残な死にざまが記されていました。この記述に、「人間を照らす光」はあるのでしょうか。
ヘロデは使徒ヤコブを殺害し、ペトロを捕らえと、教会は迫害した人物でした。
そういう人間の末路がロクなものでもない、ということを書きたいのでしょうか。
そうではありません。むしろ、聖書が語りますのは、例えば、コヘレトの言葉7章15節にありますように、「善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある」という、この世にある不条理です。
そこで、信仰者はどう生きていくかということが問題にされます。
勧善懲悪的に、最後に正義は勝つと、悪人は滅びるということでありましたら、イエス様がお生まれになったときのヘロデ大王、洗礼者ヨハネの首を切りましたヘロデ・アンティパス、また、イエス様を十字架に架けたときの総督ピラト、こういう人たちの死にざまも記されていなければ、辻褄が合いません。
いずれの人も、穏やかではない死に方をしているわけです。
いずれの人も、まさに、そこに神の御手が下ったんだと言おうと思えば言えなくもない、そういう死に方をしているわけです。が、聖書は沈黙しています。
ならば、なぜ、使徒言行録はここにヘロデ・アグリッパの死を記したのか。
23節にある、「ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた」ということを書いたのか。
その意味を押さえることがまず、今日、最初のポイントになります。
この使徒言行録と、ほとんど同じ時期に書かれた書物(90年代)に、ヨセフスというユダヤ人の『ユダヤ古代誌』という書物があります。
そのなかに、やはり、ヘロデ・アグリッパの死に様が記されています。
途中までは、ほとんど同じです。
ヘロデがカイサリアにいるときに、使徒言行録が21節、「定められた日」と記しているのを、『ユダヤ古代誌』は、「皇帝の安寧を祈願する祭」と記していますけれども、 その祭りに、方々から役人や偉い人たちが集まってきた。
その中に、使徒言行録が記しますような「ティルスとシドンの住民」という、ヘロデにおべっかを使って、お願いをしないといけない人たちも含まれていたんでしょう。
今日の20節のところで、ヘロデが何に腹を立てていたのかはわかりません。
ただ、そのヘロデの怒りは、「ティルスとシドンの住民」にとりましては、死活問題でして、ヘロデに取り入って、つまり、賄賂でも何でもあらゆる手を尽くして、何とか、怒りを鎮めてもらうように、手を尽くしたということです。
それほどに、一つの地域の命運を、ヘロデの裁量が、ヘロデのひと言が握っていたということ、そういうヘロデの力を示すエピソードなんでしょう。
この世の栄華、少なくともイスラエル地域における絶対的な権力をヘロデ・アグリ
ッパは一手に握りまして、まさに、この世の春を謳歌していたわけです。
そのヘロデが、21節、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説を始める。
その様子を、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』はこう記します。
ヘロデ・アグリッパは、銀の糸だけで織られたすばらしい布地の衣装をつけて、暁の劇場へ入場した。太陽の最初の光が銀の糸に映えてまぶしく照り輝くその光景は、彼を見つめる人たちに畏怖の念を与えずにはおかなかった。すると、突然、各方面から、人びとが、――本当にそう思ってではないが――、「ああ神なるお方よ」という呼びかけの声をあげた。(『ユダヤ古代誌』19.343-345)
使徒言行録も記しています。22節、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。
そういう賛辞の声、賛美の声を、ヘロデはそのまま受け取りました。
謙遜も否定もしませんでした。
『ユダヤ古代誌』の記述ですと、「王はこれらの者たちを叱りもしなければ、そのお世辞を神にたいする冒涜として斥けることもしなかった」(同345)。
そこで、使徒言行録はすぐに、23節、「するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した」と記すんですけれども、『ユダヤ古代誌』の方は一つエピソードを挟み込んでいます。人々の賛辞が自分に寄せられるなかで、ヘロデはふと空を見上げます。すると、そこに「頭上の綱の上に一羽のふくろうが留まっている」のを見つけます。
それに、ヘロデはドキッとするんです。「彼は心臓に刺すような痛みを覚えた」。
と言いますのは、ヘロデが若かりし頃、まだローマで学生時代を送っていた頃、友人と他愛もない話をしているときに、皇帝の悪口をポロっと言ってしまうことあしました。その話が皇帝の耳に入ったものですから、ヘロデは半年ほど牢屋に入れられてしまいます。そのときに、やっぱり一羽のふくろうを見るんです。
で、一緒に捕まった囚人が「これは良いしるし」だと、「あなたは近いうちに牢屋から出られるし、おおよそ人間が手にする最高の名誉と権力の座に着くでしょう」という預言めいたことを言うんです。「ただし、あなたが、この鳥をもう一度、見るとき、あなたは五日以内に死ぬ定めにあることを覚えておいてください」(cf. 18.197-201)とも言われます。そのお話を、ヘロデは覚えていたんです。
それで、この世の栄耀栄華絶頂の真只中で、一羽のふくろうをもう一度、見てしまったわけですから、心臓に刺すような痛みを覚え、その痛みが全身に広がり、ついには「締めつけるような痛みが胃を襲った」。そうして、『ユダヤ古代誌』は、ヘロデ・アグリッパの最期をこう記します。「五日間にわたる腹部の痛みに消耗し切った王は、ついに五四年間におよぶ生涯と七年間の治世を終えた」(19.350)。
お気づきのように、『ユダヤ古代誌』が記す、ヘロデ・アグリッパの死因は腹痛です。同じ時代に生きたルカ、同じ時代に書かれた使徒言行録は、その死因を知っています。そのうえで、ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えたと記しました。
『ユダヤ古代誌』のなかに、「蛆」という記述は、一度もでてきません。
それを記したのはルカなんです。使徒言行録なんです。
どうして、「蛆」という言葉が必要だったのでしょうか。
実は、「蛆」という言葉を、ルカに記させたのは、イザヤ書です。
今日、お読みした、イザヤ書の最後の、最後の記述です。66章24節。
もう一度、お開きいただけますか(旧約p.1171)。
外に出る人々は、わたしに背いた者らの死体を見る。
蛆は絶えず、彼らを焼く火は消えることがない。
ここに「蛆」という言葉がでてきます。
神に背いた者の死体に絶えず、蛆がわく。
そのイザヤ書の記述と、ヘロデの死を、ルカは重ねています。
ここに、私たちを引っ張っていくのが「蛆」という言葉を用いる意図です。
イザヤ書の終わりの記述と、ヘロデの死を重ねる。
ならば、その意図は何でしょうか。
それは、イザヤの預言が、すべてこの時点で、成就したと言うことです。
イザヤが未来に託した言葉はこの時点で、すべて現実となった。
ここから先は、預言の言葉の先にある世界。
未来のなかの未来、そういう世界を、教会は歩み出す。
使徒言行録12章と13章の間に、ルカは明確な線を引きます。
使徒言行録が13章から記すのは、パウロを中心とした世界宣教です。
13章から、教会が初めて自らの意志をもって、自覚的に、宣教に乗り出すんです。
もちろん、その自らの意志も、聖霊なる神に導かれてのものです。
けれども、ここまでの教会の宣教・伝道はどういうものであったのか。
ご一緒に学んできましたように、エルサレムで迫害が起こると、方々に散って行かざるを得ない、その先々で福音を宣べ伝えたというものでした。
それはそれで尊いことでしたけれども、意義深いことでしたけれども、復活のイエス様が仰った、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)という、その宣教命令に応答して、というものではありませんでした。
13章から、本当に「地の果て」を目指し始めるんです。
その分岐点を記すのが、「ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた」と、ルカが記した意図です。そこで、イザヤ書66章が終わっている。
ここで、預言の時代が終わった。ここから後は預言の先の世界を生きる。
もちろん、神の言葉に生きる教会は、旧約の預言と無関係に生きるのではありません。預言の先の世界に、教会が踏み出していくことを指し示しているのも、また預言の御言葉、イザヤ書なんです。
66章24節にありました、外に出る人々は、わたしに背いた者らの死体を見る。
「外に出る人々」とは、誰のことでしょうか。
その直前に記されていました。19節、わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。
教会が福音を、イスラエルの外へと、諸国へと、地の果てに届けていく、そういう預言の先の世界に生きていくことを促すのは、実はそれも預言の言葉でした。
すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。
タルシシュは現在のスペインです。パウロが、最終的にイスパニアに行く、スペインに行くことを志した(ロマ15:28)のは、このイザヤ書の記述からかもしれません。まさに、そこが地中海世界の「地の果て」にあたります。
プルは現在のリビア、北アフリカ地域です。ルドはトルコ西部。トバルはトルコの東部、ヤワンはギリシアです。これから、教会が福音を届けに行く場所です。
このイザヤ書の記述に従って、このイザヤ書の記述の先にこそ、教会は歩み出していくんだというメッセージを、ルカは「蛆」という言葉に込めたわけです。
ここで、一つの時代が終わって、新しい時代に生きていく。その光景をまた、ルカは、24節に、「神の言葉はますます栄え、広がって行った」とも記しています。
「ますます栄え」というところに面白い言葉が使われています。
そこで使われているギリシア語は、ふつう、「(子ども)が育つ、成長する」というときに使われる単語です。
ルカによる福音書2章40節に、イエス様のことですけれども、「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の輝きに包まれていた」という記述があります。そこに使われている「育ち」という単語が、今日のところで「ますます栄え」というふうに訳されているのと同じ単語なんです。つまり、幼子であった神の言葉がいよいよ大人になっていく、新しい救いの季節を迎える、神の言葉は生きていて、人間の間で成長して、大人になって、広がっていく、そういうイメージです。
ですから、「栄える」というのとはちょっと違うんですけれども、これはすばらしい翻訳です。ギリシア語で「ユークサネン」と記しています。その音が、「栄光」を意味する、ギリシア語のドクサと、音が重なっているんです。重ねているんです。
つまり、神の言葉が成長していく、新しい季節に大人になっていく。
そこに、人間は、神の栄光を見るということです。
イザヤ書にありました。「彼らは来て、わたしの栄光を見る」(66:18)。
これは間違えてはいけないことです。
教会が一生懸命伝道するから、宣教するから、そうして、教会は神の栄光を輝かす
というのではありません。それは自分の栄光を見ることです。それはヘロデが持ったうぬぼれです。そうではなくて、神の言葉は、ヘロデがどうあれ、教会がどうあれ、それ自体、生きていて、時が来れば成長するものなんです。
神の言葉が自ら成長する、新しい季節へと踏み出していく。教会はそれについていく。志を与えられてついていく。そうすると、神の栄光を見せて頂ける。
その順番です。その時が来ていること、教会が、神の言葉の成長に合わせて、新しい季節のなかへと導かれている、いよいと神の栄光を見せて頂こうとしていること、さあ、ここからだということを、ルカは実は少しつずつ書いていました。
このことを最後に確認して終わりましょう。
前回、17節の記述を見ました。牢獄から帰ってきたペトロが、エルサレムの教会たちに、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言い残しました。
そのヤコブは、使徒ヤコブではなくて、主の兄弟ヤコブです。
使徒ヤコブは、ヘロデの企みに、もう殺害されています。
主の兄弟ヤコブは、狭い意味での使徒ではありません。十二使徒ではありません。
ペトロは、自分もしばらくエルサレムを離れるというときに、教会のことを使徒に託しませんでした。そういえば、ということで思い出すのが、11章30節です。バルナバとパウロが大飢饉の中にあるエルサレムの教会に、援助の品を届けるんですけれども、そこで、こう記されていました。そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた。長老たちに届けた。使徒たちに届けていないんです。これ以前は、こういう献金、献品は、使徒たちのもとに置かれていました(4:36)。
それが長老たちに届けられた、ということは、エルサレムの教会には、もう使徒たちが残っていないようなんです。使徒ヤコブは殺害され、ペトロも去る。
それが宣教のためであるのか、迫害のためであるのかはわかりません。
しかし、教会の中心点がエルサレムだけにあるのではなくて、同心円状に外に広がって行く、自らの意志をもって、神の言葉に応答していく。
そういう新しい季節のなかに、教会は歩み出していくのです。
成長する神の言葉に、教会はついていくのです。
成長する神の恵みに、教会は満たされるのです。
そういう時間の中に入った、そういう世界の中に入ったことを知らせる今日のこの箇所はやはり命の言葉です。この延長線上に、今、私たちも生きているからです。成長し続ける、生きている神の言葉に、教会も、私たちも命を頂き続けているからです。
言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
お祈りをいたしましょう。