「ペトロの帰還を迎える教会」
~主が導かれる現実の中を共に生きる~
使徒言行録12章12~19節 讃美歌285、312
12 こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。13 門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。14 ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。15 人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。16 しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。17 ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。18 夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。19 ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。
詩編126編1~6節
1 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。2 そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。3 主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。4 主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。5 涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
■本論
主のご受難を覚える四旬節・受難節のなかにあって、エルサレムの教会を襲いました迫害の記事を読み進めています。
12章の最初にありますように、時は、除酵祭・過越際という、イエス様が十字架に架かられた季節です。ちょうど今、私たちが向かっている季節です。
前回にお読みしたのは、ほとんど脱出が不可能という牢獄から、ペトロが救出された記事でした。ヘロデの目には、牢獄にいる兵士のなかに裏切り者がいた、ペトロの脱出を導いた者がいる、という仕方で、しかし、それにしても、信仰者の目からしますならば、主が遣わしてくださった主の天使に導かれて、としか言いようのない仕方で、ペトロは、「ある通り」という、ひとまず安全な場所まで、導かれたのでした。
そのペトロは、すぐに教会に戻ります。今日は、そこからのお話です。
二つのことを学びたいと思います。
一つは、主の天使に導かれて、というように帰ってきたペトロを迎える教会の姿です。もう一つは、帰ってきたペトロの姿です。その姿をルカがどういう書いているか。
まずは、ペトロを迎える教会の姿、です。
ペトロはすぐに、「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」に行きました。
その家が、エルサレムの教会として用いられていました。伝承によりますと、イエス様と弟子たちが最後の晩餐で用いられたのも、この家の2階です。
門がある、また、この家には女中さんもいる、というわけですから、かなり大きな、裕福なお家でして、そのお家を、マルコ(おそらくはマルコ福音書の著者)のお母さんは、教会のために開放していたようです。
ひと晩をかけて、祈りがささげられていました。
5節にありました、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」。
もう明日にでも、ペトロ先生が処刑されてしまうというなかで、教会の人たちは、「熱心な祈り」を、すなわち、ゲツセマネの祈りをささげていました。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた(ルカ22:44)という祈りに、自分たちの祈りを重ね合わせ、わたしの願いではなく、御心のままに行ってくださいと、一祈り続けた。
過越の祭りを前にした夜ですから、一晩中、家に灯がついているということは、とりたてて不自然なことではありません。むしろ、みんな、起きていて、子どもたちに、出エジプト記に記された神様の救いの物語を語り聞かせたり、詩編を歌う・賛美する、また、その恵みを家族で語り合うというのが、過越祭を前にした夜の過ごし方です。
ただ、そこに門を叩く音が、ということで教会の人たちは身構えました。
まずは女中として働いていたロデさんが様子を見に行きます。
ここからが面白いんです。ロデという名前は「バラの花」という美しい意味ですけれども、それとは裏腹にと言いましょうか、ロデさんは、なんともおっちょこちょいな人でして、門の戸を叩く人が、声でペトロ先生だとわかりますと、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込んだということです。はやくペトロ先生を家の中に入れることが先でしょうけれども、やったあということで、みんなに知らせに行く。
また、知らせに行ったら行ったで、教会の人は誰も信じないんです。
そんなわけないじゃないかと、生きて帰ってこられるはずないじゃないかと。
挙句の果てには、ロデさん、「あなたは気が変になっているのだ」と言う人もでてくる。「それはペトロを守る天使だろう」と言い出す人もでてきた、とのことです。
もうドタバタなんです。
ちなみに、「ペトロを守る天使」というのは、守護天使のことです。
ちょっと、私たちには馴染みがありません。
こういう発想が直接、新約聖書にも旧約聖書にでてこないからです。
旧約聖書と新約聖書の間の「中間時代」に人びとの間に広まった考えです。
まったく根も葉もなく、というわけでもありませんで、たとえば、詩編91編11節の御言葉を見ますと、「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこに
おいても守らせてくださる」という御言葉あります。それ自体は、神様の親密な守りを教える御言葉ですけれども、そういう御言葉から、人間一人ひとりには天使がついている、守護天使がいる、そういう発想が広がっていくことになります。
そうして、一度広がり始めた考えは尾ひれはひれがついてくるものでして、たとえば、守護天使は、その守る人間とそっくりな姿かたちをしている、そっくりな声をしている、なんてことにもなっていきます。
その本人がどうしても行きたい場所に行けないというときに変わりに行ってくれる。大切なことを伝えに行ってくれる、夢枕に立つみたいなこともしてくれる。
そうなりますと、もう俗信、迷信みたいなものですけれども、そういう守護天使だと、会の人は思ったということです。捕まったペトロ先生が牢獄から戻って来られるはずがないので、それはペトロ先生の守護天使だと。そういうことを、家のなかで、教会のなかで、ああでもない、こうでもないと話している。
その間、ペトロはずっと戸を叩いている。空けてくれと戸を叩いている。
なんともおかしな、滑稽な教会の様子を、ルカはここに記しています。
12章はずっとそうですけれども、ここにある迫害という深刻な状況を描くルカのタッチは、深刻ではない、妙に軽いものです。
なぜなのか、です。
ひとつには、たとえ重大な苦難のなかにあっても、教会は軽やかに生きるんだと、安心して生きるんだと、生きられるんだというメッセージを込めて、です。
福音書のなかに、イエス様と弟子たちが舟に乗っておられる、そこに突風が吹いて来て、嵐が起こって、舟が沈みそうになるんですけれども、イエス様はぐっすりと眠っておられるという場面があります(ルカ8:22-25)。その眠りは、ゲツセマネの園の弟子の眠りではありません。悲しみの果てに疲れ果てて眠るというのではない。
安心して、どんな嵐も、どんな苦難も、神の御手のなかにある信頼において、イエス様は眠っておられた。その記述も非常におもしろく、軽快なものです。
教会はいつだって、安心して生きることができるんだという、非常事態のなかでもおかしなことはあって、右往左往しながら、歩んでいいんだという、そういうメッセージをここに置く、ということが一つあります。
もう一つ大切な意味があります。
この使徒言行録が記されたのは、80年代、あるいは90年代頃だと考えられます。
そうしますと、その時点で、エルサレムの教会はもうないわけです。
紀元70年に、エルサレムはローマ軍によって徹底的な破壊を受けます。
神殿は廃墟となります。街には人が住めなくなります。
物理的な意味においては、エルサレムに教会はなくなります。
そうしますと、人間はなくなったものに、幻想を抱き始めます。
過度に、理想を託し始めます。実際に存在しているものは、欠けも過ちも見えますから、理想を乗っけるということは起こりにくい。
けれども、失われたものについては、必要以上に美化されていくものです。
使徒言行録が記されている時点で、かつてあったエルサレムの教会の理想化と言いましょうか、神格化みたいなことが、教会のなかに起こってきます。
それが昔を懐かしむということであれば良いんですけれども、それだけはなくて、かつての教会は理想的なもので、今の教会はダメだみたいな、変な批判、あるいは変な自己卑下みたいなものがでてきていまして、そういうものではない、ということを、どうやら、ルカはここに記そうとしたようなんです。
教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。
イエス様のゲツセマネの祈りに自分たちの祈りを重ねながら、祈っていた。
それはすばらしいことです。
しかし、実際にペトロが戻って来たときには、みんな、びっくり仰天してしまう。
神様が導いてくださった御心を、そのまま感謝することができたわけではない。
むしろ、そんなことあるものかと、ロデの気が変になってしまったんだと言う。
この苦難を、何とかして御心として受け止めさせてくださいと祈り続けていた人たちが、それでも思いを越えた御心があらわされたときに、そのまま信じられない。
あるいは、守護天使だという迷信に、俗信に、まだどっぷり浸かっている人もいる。
ここにいるのは全然、理想的な信仰者ではありません。
私たちと変わらない人間が、エルサレムにいたんです。
熱心な祈りをささげる、それは間違いない。
しかしその祈りが完全無欠かと言えばそうではない、へんてこな信仰がそこにある。
それでも、神は、そこに共におられたんです。その人たちを用いられたんです。
エルサレムの教会の偉大さは、そこに理想的な信仰者がいたことではありません。
いなかったんです、そんな人は。私たちと変わらない人間だけがそこにいた。
しかし、神がその人たちを用いられたということ、そこにエルサレムの教会の偉大さがありまして、同じ偉大さは、同じ恵みは、私たちにもある、ということです。
ですから、熱心に祈り続けるんです。
わたしの願いではなく、御心のままに行ってくださいと祈り続けるんです。
驚きながら、戸惑いながら、でも、受け止めさせてくださいと祈り続けるんです。
それが、いつの時代でも、どんなことがあっても変わらない教会の姿です。
エルサレムの教会の苦難は、この後も続きます。
ペトロが言っています。「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。
この点は改めて、また次回に学びますけれども、教会の態勢を整えなければいけません。ここで言われるヤコブは使徒ヤコブではありません。彼は殉教しました。
このヤコブは主の兄弟ヤコブです。新しい態勢を整えなければいけません。
熱心な祈りがこの夜に終わるものではありません。
祈り続けていくこと、祈りが聞かれない、御心と受け止められない、そういう日々を、しかし、教会は祈り続けていくんです。
その祈りを、神が必ず用いてくださるからです。
「今、初めて本当のことが分かった」という人が起こされるからです。
その「今、初めて本当のことが分かった」というところに立ったペトロの姿を、もう一つ見て、終わることにいたしましょう。
ここでルカが見ているのは、ペトロの変化です。
「今、初めて本当のことが分かった」、主が天使を遣わして、……わたしを救い出してくださったのだという地点に立った、その後のペトロに起こった変化です。
自分の身に起きた事柄を、「神」を、「主」を、主語にして、「神が……」と捉え直す、しかも、救いの出来事として捉え直したときに、ペトロの行動に変化が起きた。
その変化をルカは、こんなふうに記しています。
一つは、戸を叩き続けるペトロです。
13節、門の戸をたたくと。14節、ペトロをたたき続けた。
重ねて、門の戸をたたくペトロの姿を、ルカは記しています。
門の戸をたたくのは、本当はイエス様です。
ヨハネの黙示録3章20節にある御言葉です。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
神との祝宴の招きの言葉です。救いへの招きの言葉です。
イエス様が戸を叩いている。教会はなかなか開けないので、人間はなかなか心を開かないので、イエス様はずっと戸を叩き続けている。
イエス様はたとえでもお話をされました。ルカによる福音書12章35節、36節です。腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
38節、主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
その主人というのは、イエス様のことです。帰ってくる、あなたたちの戻ってくる、そのときに戸を叩くから、いつでも迎えてくれるように待っていなさい。
戸を叩くのはイエス様です。
その役割をここでペトロがしている。イエス様のしていることをペトロがしている。
それこそが、使徒の役割です。ルカはここに、ペトロが本当に、イエス様の使徒として、生き始めたんだということを見ています。
牢獄のなかで、わき腹を叩かれた。イエス様が十字架で貫かれた同じ場所、叩かれた、そして起き上がった、ただただ御心のままに、天使に導かれた。
そうして、「今、初めて本当のことが分かった」というペトロは、使徒として生き始めるんです。ここまでであっても、そうしてきたはずなんですけれども、この投獄からの脱出において、本当にキリストに生き始める、救いを届ける人になる、戸を叩き続ける人になる、すぐに開けてもらえなくても、すぐに届けることができなくても、イエス様がそうであられるように、戸を叩き続ける人になる。
そういう変化が、ペトロの身に起こったということです。
そのペトロは、17節、ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、とあります。
教会の人たちがみんなびっくりだしちゃって、喜びの大声を発したのでしょう。
それを、ペトロは、手で制する。これは、雄弁家、弁護士や、またラビもそうですけれども、物事を言葉で伝える人がする動作です。
パウロもこの動作をすることが、幾度か記されています。語る人の動作です。
ペトロはもともと漁師でした。漁師は、人を手で制することはしません。いや、そういうことはあったのかもしれませんが、漁師が手を制すると記し残されることはありません。人を手で制するのは、言葉で物事を人に伝える人の動作です。
ペトロがそういう人になったということです。その意味においても使徒になった。
言葉でイエスという方を、言葉で福音を語り伝える人になった、ということ。
ですから、ペトロは説明するんです。言葉で伝えるんです。
どういうふうに伝えるかと言いますと、主が牢から連れ出してくださった次第です。
神が何をしてくださったかです。神がわたしに、私たちに何をしてくださったか。
そのことを説明するのが、使徒の役割、メッセンジャーの役割です。
その役割を、ペトロは明瞭に、自覚的に、担うようになった、ということです。
このペトロが、主が起こしてくださった、生み出してくださった。
ここでも、決して、ペトロを神格化する意図はありません。
ペトロは何も分かっていなかったんです。
ただ、主がなしてくださった、主が救い出してくださった。
そういうふうに、自分の身に起きた事柄を、神を主語にして、「神が」と受け取り直してみる、語り直してみるときに、その人の生き方は本当に変わる。
「今、初めて本当のことが分かった」、教会の祈りが生み出す歩みが、ここに集うことゆるされた一人ひとりに備えられていることを覚え、感謝をいたします。
お祈りをいたしましょう。