「教会が知る神の御力」
~危機から救い出されることを通して~
使徒言行録12章6~11節 讃美歌195、259
6 ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。7 すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。8 天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。9 それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。10 第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。11 ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」
詩編107編10~16節
10 彼らは、闇と死の陰に座る者/貧苦と鉄の枷が締めつける捕われ人となった。11 神の仰せに反抗し、いと高き神の御計らいを侮ったからだ。12 主は労苦を通して彼らの心を挫かれた。彼らは倒れ、助ける者はなかった。13 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らの苦しみに救いを与えられた。14 闇と死の陰から彼らを導き出し/束縛するものを断ってくださった。15 主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。16 主は青銅の扉を破り/鉄のかんぬきを砕いてくださった。
■本論
先の水曜日より、主のご受難を覚える四旬節・受難節へと入りました。
そういう季節に読むのにちょうど良い御言葉に、導かれてきました。
使徒ヤコブが、ヘロデ王の企みによって殺害され、ペトロが牢屋に入れられる。
それは、「除酵祭の時期であった」と3節に記されていました。そして、4節、「過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった」と記されていました。
除酵祭と過越祭はもともと別のお祭りなんですけれども、どちらも出エジプトの出来事を記念する、神の救いを記念するお祭りですから、イエス様の時代にはほとんど同じお祭りとして、一緒にお祝いされていました(ルカ22:1)。
そのお祭りのときに、イエス様は十字架に架かれたのでした。
同じ時期に、ペトロもまた捕らえられたというのが今日のところです。ヘロデ王は、ペトロを「民衆の前に引き出すつもりであった」、処刑をするためにです。
イエス様のご受難を追体験するように、ペトロにもまた十字架が迫ります。
このところが記している意味を追いかけていきます。
まず目を見張るのは、ヘロデ王が過剰な警備をペトロに敷いたということです。
前回にお読みした4節です、「ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵
士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった」。
監視にあたった兵士は「四人一組」でした。ペトロ一人に、兵士四人です。
通常はこんなことありえません。兵士は牢の外で一人立っているだけです。
特例的に、重大な犯罪人の場合に、一人の兵士が自分も牢の中に入って、自分の手首と囚人の手組を鎖でつないで、見張るということがありました。それで一人が外で見張る。それでも二人体制です。ペトロの場合は四人体制です。
つまり、ペトロの両脇に二人の兵士がついて、外でも二人が見張る。
その四人一組の兵士が四組いたというのは、24時間体制ということです。
超厳戒態勢です。しかも、ペトロが入れられていた牢屋は、第一の関門があって、第二の関門があって、さらに鉄の門があって、という、おおよそ脱出は不可能という、おそらくアントニオ要塞という、重要な政治犯が収容された場所です。
なんでそこまでというほどの厳戒態勢が敷かれました。
そこまで徹底して、ペトロを処刑し、民衆の喝采を浴びる、それがヘロデ王でした。
大ピンチです。すでに、使徒ヤコブは殺されました。
そのときに、前回の5節、教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。
それは「熱心な祈り」、すなわち、ゲツセマネの祈りでした。
思い出すべきは、ルカによる福音書22章44節の記述です。
十字架を前にした夜、イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。
その「切に」という言葉が「熱心」と同じ単語でした。
ゲツセマネの園で、イエス様は切に、熱心に祈られました。
こういう祈りでした。
父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。
父なる神が導かれる事柄を、現実を、御心として受け入れさせてください。
それが、イエス様のゲツセマネの祈りで、その祈りを教会は祈ったのでした。
四旬節、受難節の祈りです。それが私たちの祈りとなります。
わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。
私たちは、この祈りに生きる。
今日、お読みしたところは、その教会の祈りに、神様は応えてくださったんだ、ということを教える場面です。神様は、私たちの祈りに必ず応えてくださるお方なんだ、ということを教える場面です。そのポイントが、どこにあるのか、です。
この箇所で、何より目を引くのは、ドラマチックなペトロの救出劇です。
活き活きと描かれています。非常に面白い。
いよいよ翌日に、処刑だという前の夜に、なぜかペトロはぐっすりと眠っている。
そのペトロのわき腹を天使がツンツンとつっついて起こす。
肩をゆするとか、頭を叩くではなくて、わき腹をツンツンする。が、それでシャキッと目が覚めるわけではない。眠気眼なんです。天使から、「急いで起き上がりなさい」と促されましても、現実のこととは思えない、幻を見ている、夢を見ているような心地で、ただただ天使の言う通りにする、ついていく。そうすると、手から鎖は落ちるは、第一の関門、第二の関門は突破できるは、ついには最終関門である鉄の門は、ひとりでに開くわ、ということで、気づけば脱出できていたという、おおよそ苦難の場面とは思えない、どこかユーモラスな、軽いタッチで、記されています。
非常に面白い。が、この箇所の中心は、ペトロの救出劇それ自体にはありません。
神様は、祈りに応えてくださった。
どう応えてくださったのか、それが重要なことです。
ペトロが、絶対に脱出不可能なアントニオ要塞を天使に救出された、そういうかたちで、神は祈りに応えてくださった、そういうことをルカはここに見ていません。
そもそも、そういう祈りを教会はささげていなかったんです。
ささげていなかったので、ペトロが帰ってきたときに、みんな、驚くんです。
教会がささげていたのは「熱心な祈り」です。御心のままに行ってください。
決して、神の御心であると、生身の心では受け入れられない、そういう事態の中に、いや、それでも神がおられると、神が善き御心をもって導かれているんだという意味を見つけることができるように、神様を信頼し続けるための確かな意味を見出すことができるように、教会がささげていたのは、そういう「熱心な祈り」です。
神様が応えられたのは、そういう「熱心な祈り」に対してです。
信仰者が、自分の身に起きたことを、そこに神の御手が働いたと受け取る。
それは、決して簡単なことではありません。
祈りなしに、教会の祈りなしにありえないことです。
ここで、ペトロ自身は祈っていません。ただひたすらに眠たかっただけです。
それでも、そのペトロが11節、今、初めて本当のことが分かったと言う。
主が、神様が、わたしを救い出してくださったのだ、と言う。
自分の身に起きたことに、神の介入があった、神の働きがあった。
ヘロデの企み、ユダヤ民衆のあらゆる目論見。暗いじめじめとした牢屋。
そこからの救出。それは、主が天使を遣わして、救い出してくださったこと。
そこに全部、神が共にいてくださった。それが、今、初めて本当のことが分かった。
そのように受け止めることができた、ということが重要でして、そこに教会の祈りがあったからだということが、この箇所のポイントです。
祈りは、人間に、自分が生きる世界に神の介入があることを見せます。
それが、この箇所の中心点です。
同じことを経験しても、同じ現実の中にあっても、まったく違う受け止めをすることはあります。このペトロの救出劇を祈りなしに見たら、どうであるのか。
ルカが極めて意識的に、ペトロと対照的に一人の人物を描き出しています。
ヘロデです。次に読む19節にこうあります。ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じた。
つまり、ヘロデの見立てでは、厳重に厳重を重ねたんだけれども、警戒に警戒を重ねたんだけれども、アントニオ要塞の兵士の中に、ペトロの逃亡を助ける者がいたということです。キリスト者であるのか、命がけでペトロを逃がした兵士がいる。
命がけでと言いますのは、もし囚人が逃げたら、その責任は監視をしていた兵士が負わなければいけませんでした。囚人に課せられる同じ罰を受けなければいけない。
ペトロは処刑されていることになっていましたから、ペトロを逃がすということは、その兵士は自分が身代わりとして処刑されるということです。
それでも良いと逃がした兵士がいる。
ヘロデはぞっとしたと思います。一人や二人の兵士では不可能です。
少なくとも四人一組の兵士が見張っていた。第一の関門、第二の関門、最後の鉄の門のところに至るまで、いったい何人の兵士が関わると、この脱出劇は成功するのか。
ヘロデとしては理解できません。そういう手を打ったんですから。
が、覆された。それはもうまったく奇跡としか言いようのない。
ミッションインポッシブルなんです。本当にヘロデは怖くなったと思います。
用いられた人が確かにいるんでしょう。福音がアントニオ要塞の兵士たちにまで、しかも広く届いているというそれもまた奇跡のようなことがあったんでしょう。
が、そこに、神の働きを見るのか、見ないのか。
ヘロデのように、神なしの現実を見て、恐れるのか。そうではなくて、自分の身に起きた事柄のなかに、天使に助けられたとしか言いようのない、神に導かれた現実を見るのか。訳も分からず恐れて生きるのか、分からないなかに安心して生きるのか。
教会の祈りは、人間に、私たちに、あなたが生きる現実に、あなたの身に起こる事柄のなかに、神の介入がある、神が共にある、そういう信仰の視力を与えます。
ルカは当時一流の知識人。合理的な人です。美しく論理的な文章を書く人です。
その人にして、神がなさったとしか言いようのない出来事がある。
そのことをあらわす表現として、ルカは、主の天使が、と記しています。
ルカはここにおとぎ話を書きたいのではない。現実に起きたことを書きたい。
その現実を、どう見るのか、ということを書きたい。
教会の祈りは、ペトロに、神が助けてくださったということを見せたんです。
そのことを押さえたうえで、もう一度、ペトロの脱出劇の記述を見てみましょう。
なぜ、こんなに楽しげで、ユーモラスな、滑稽な記述になっているのか。
それは、苦難のなかに生きる信仰者が、私たちがこんなふうに生きるからです。
ペトロは、明日になれば処刑だという、その前の夜にぐっすりと眠っていました。
その眠りは、ペトロの大胆さ、信仰深さを示しているのではありません。
逆です。教会は熱心な祈り、ゲツセマネの、イエス様の祈りをささげていました。
あのゲツセマネでも、ペトロは眠っていました。
「悲しみの果てに眠り込んでいた」(ルカ22:45)と福音書に記されています。
そういう眠りです。悲しみの果てに、疲れ果て、あきらめて、眠っていたんです。
私たちにも、そういうときがあるじゃないですか。
心が闇に覆われることがあるじゃないですか。心が牢屋に縛られることがある。
しかし、そこに光が差し込む。これは、出エジプト記からの記述です。
イスラエルの民が、神様に導かれてエジプトを脱出する前に、全地が暗闇に覆われるということがありました。しかし、そこにこういう記述があります。
イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。(出エ10:23)
その記述を、ルカはここに持ってきます。どんな暗闇の時にも神の光は差している。
この後の天使の言葉も出エジプト記にある言葉です。
「急いで起き上がりなさい」、「帯を締め、履物を履きなさい」。
イスラエルの民が神様から言われた言葉なんです。急いで、帯を締めて、履物を履いて、つまり、さあ、救いの旅を始めるぞ、ここを脱出するぞと。
同じ言葉をもって、ペトロは励まされています。さあ、救いの脱出劇だと。
そのとき、ペトロはわき腹をつつかれる。なんで、わき腹か。
わき腹は、イエス様が十字架で貫かれたところです(ヨハ19:34)。
イエス様のわき腹が貫かれることで、十字架の死が確認されました。
その十字架の死、その十字架の救いを思い起こさせるのが、わき腹です。
救いは、十字架のイエス様の死において実現したんです。
その死を、ペトロは自分の体に受ける。その救いを自分の体に受ける。
キリストと共に自分の罪に死ぬ。ならば、キリストと共に生きる。
十字架の後に来るのは復活です。ですから、天使は言います。
「急いで起き上がりなさい」。
起き上がるというところに使われている言葉は、復活するという言葉です。
復活しなさいと言われている。罪に死んで、キリストと生きなさいと言われている。
現実のなかに、神の介入を見るということ、それはキリストと共に生きるということです。闇から光へ、牢から安息の場所へと脱出していく。第一の関門を、第一の関門を、最後の鉄の門を、乗り越えられないと思えるところを通っていく。
ミッションインポッシブルを信仰者は乗り越えていく。
神の御力によって、主の天使がとしか言いようのない神の介入によって。
そして、「今、初めて本当のことが分かった」という日が、神の御心だと受け止められる日が、信仰者には必ず与えられます。
それでも、このお話の最大のポイントは、そのように、ペトロの脱出劇が、主の天使に導かれていく、神様に導かれていくなかで、ペトロ自身はずっと眠っているということです。天使のしていることが現実のこととは思われなかったということ。
ずっと、半分眠っていたということであった。夢うつつであったということ。
私たちもそうです。そういうものです。
神の御心があらわされるその真っ只中にあるときに、これが神の御心だなんてことは、その本人には、当事者には分かりません。それで良いということです。
苦難のときに、何もしなくて良いということです。できないんです。
できたら、それは苦難とは言いません。できないから、苦難なんです。
真っ暗闇だと。神様のことが分かりません。神の御心は分かりません。
それでいいんです。それで自分を責める必要は一ミリもない。
ペトロは、ただただ「そのとおりにした」。それだけです。
ペトロが、今、初めて本当のことが分かったと言ったのは、全部終わってからです。
もう安全だという道にまで導かれて、危険は過ぎ去って、天使もいなくなって、それで、我に返ったというんです。そういうものです。
しんどいときは、本当に眠っているみたいになります。心も体もずっと動き続けて、疲れ果てます。あの、ゲツセマネの園の弟子たちのように。
その真っ只中で、できることなんて何ひとつありません。
眠っていたって、心は安らいでいませんから、ただ夢うつつです。
しかし、そのときに忘れてはいけないことは、二つです。
一つはそれでいいということ。もう一つは教会の祈りがあるということです。
いつか必ずまた、御心だと受け止められる日が来ますので。
いつか必ずまた、今度は自分が教会の熱心な祈りをささげられる日が来ますので。
ペトロが最後の晩餐でイエス様に言われていたじゃないですか。
わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:31)
そういう日が必ず来るんです。「今、初めて本当のことが分かった。」
そういう日が必ず来る。そのことを私たちは信じて良いんです。
ですから、ここの記述は軽やかです。
そのように、苦難の中にあっても生きて良いということです。
お祈りをいたしましょう。