「わたしがあなたを選んだからだ」

~天と地を揺り動かす神の御力を信じる~

 

ハガイ書2章20~23節

20 同じ月の二十四日、主の言葉が再びハガイに臨んだ。21 「ユダの総督ゼルバベルに告げよ。わたしは天と地を揺り動かす。22 わたしは国々の王座を倒し、異邦の国々の力を砕く。馬を駆る者もろとも戦車を覆す。馬も、馬を駆る者も、互いに味方の剣にかかって倒れる。23 その日には、と万軍の主は言われる。わが僕、シェアルティエルの子ゼルバベルよ、わたしはあなたを迎え入れる、と主は言われる。わたしはあなたをわたしの印章とする。わたしがあなたを選んだからだ」と、万軍の主は言われる。

テサロニケの信徒への手紙一5章1~11節

1 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。2 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。3 人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。4 しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。5 あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。6 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。7 眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。8 しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。9 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。10 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。11 ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。

 

■本論

2026年に入ってから読み進めてきましたハガイ書の最後のところとなりました。

同じ月の二十四日、主の言葉が再びハガイに臨んだ。

前回にお読みしたところが、ダレイオスの第二年九月二十四日のことでした。

そのところで、「今日この日から以後、よく心に留めよ」、「この日以後、よく心に留めよ」と神は仰ったのでした。

どれほど思いめぐらしましても、私たちは過去のあの日の決断を変えることはできません。違う選択肢があったことは分かるんですけれども、あの時の自分に働きかけて、選んだ道を変えさせることはできません。その過去に心を置くのではない。

私たちの心を置く場所は、「今日この日から以後」です。

神が祝福してくださる「今日この日から」をどう生きるか、です。

そうしましたときに、過去の決断は変えられないんですけれども、「今日この日から」を生きることで、過去の見え方は変わっていきます。

あの日の自分は一ミリも変わらないんですけれども、しかし、あの日の自分の受け

 

止め方は、「今日この日から」の生き方で変えられていきます。

変えられるように生きなければいけない。

イスラエルの民にとりましては、それはバビロン捕囚の出来事であり、捕囚から帰ってきてからの上手くいかなさであり、18年もの間、止まったままの神殿再建のことであり、が、そういう過去を後悔することではなく、その過去を、神の祝福のなかで、そのときはそのときで精一杯やったとあたたかく受け止め直す。そうして初めて、そのときに犯された数々の罪も正当に受け止められていくものです。

それが大切なことです。「今日この日から以後」を神と共に生きることが大切です。

神殿再建はひとつの手段に過ぎません。神殿を再建してもいつかは壊れるんです。

現在は「嘆きの壁」が残るばかりです。ハガイたちの奮闘の痕跡はもう見えません。

しかし、彼らのしたことは決して無駄ではなかった。

無駄ではなかったのは、神に示された「今日この日から以後」を生きたからです。

神殿再建を成し遂げたことではない。神の御言葉に従って生きたことが尊い。

イエス様は仰ったんです。天に宝を積みなさい。

神のために、隣人のために、なしたこと、なそうとしたことは、神の御前にあって、消え去ることはありません。そこに神の栄光があり、神の祝福があり。

その祝福を学んでいくために、私たちはそれぞれに賜物が与えられ、奉仕をなす。

それが、紀元前520年時点のイスラエルの民にとっては、神殿再建でした。

今、私たちにとりましては、2026年の岡山教会の歩みとなります。

「今日この日から以後」、神と共によく生きることです。

ハガイ書の御言葉は、「今日この日から以後」の未来へと、私たちの心を引っ張っていきます。それが、ハガイ書に限らず、預言書の根本的な性格です。

預言書は一方では必ず、その言葉が語られた現在に強く密着しています。

ハガイ書であれば、神殿再建という現在です。

神の言葉は、人間に「今日この日から以後」を生きさせるものですから、「今日」という、現在から離れて語られることはありません。現在に密着します。

しかし、同時に現在に密着する言葉は「今日この日から以後」を目指しますので、将来を指さします。とりわけ、究極の将来を指さします。

人間の究極の将来、それは救いです。神に救われるということです。

神と共にあるということです。そこに人間が目指す場所、導かれる場所があります。

ですから、すべての預言書は、固く現在に密着しながら、将来の救いへと、救い主へと、言葉を伸ばします。その言葉が、メシア預言と呼ばれるものです。

特に、今日、お読みしたところがそうでした。メシア預言です。

これが、預言者としてのハガイの最後の仕事です。

 

現在から未来を指さすこと、神の救いを、救い主を指さすこと。

非常に短い、小さな仕事です。が、神に仕えるがゆえに尊い仕事です。

特に求められていることは、ユダの総督ゼルバベルに御言葉を伝えることでした。

ゼルバベルは、ハガイ書の最初からずっと言及されている人物でした。

バビロン捕囚が終わって、エルサレムに帰ってきた民のリーダーです。

そのゼルバベルに、この最後のところは、焦点が絞られています。

それは、ゼルバベルだけが、この御言葉を聞けばいいということを意味しません。

ゼルバベルを通して、神が指さしておられること、約束しておられることを、しかと見据えることが、その道に心を置くことが、求められています。

皆さん、ゼルバベルをご存知でしょうか。

名前の意味は、「バベルの種」、「バベルの若枝」です。

「種」とか「若枝」というのは、救い主を指す預言者の言葉遣いです。

よく使われるのは、「ダビデの若枝」です。ダビデのために若枝を起こす。

それが、「バベルの若枝」と言いますのは、バビロンの地にあっても、つまり国が滅んで、ダビデ王家が絶えたように見えたなかにあっても、なお神は「若枝」という救い主の約束を覚えておられる。神は必ず「若枝」たる救い主を遣わしてくださる、「ゼルバベル」という名前は、そういう願いが込められた名前です。

この「ゼルバベル」という名前を、新約聖書のなかに見つけることができます。

マタイによる福音書の最初にある系図のなかに、です。1章13節。

この「ゼルバベル」が、マタイの系図のなかで、旧約聖書にでてくる最後の人物。

「ゼルバベル」の後は中間時代と言いまして、旧約聖書の先の時代に入ります。

つまり、「ゼルバベル」こそが、旧約聖書の救いの歴史の着地点です。

国は滅んで、王家も滅んで、しかし、ダビデの若枝、神様が仰ったダビデの子孫からという救い主の約束は絶えていない。その証拠がゼルバベルという人物です。

ハガイ書が最後に、ゼルバベルひとりに言葉を集中して向けますのは、神の約束は絶えていない、神は過去を見ておられない、神は未来は見ておられる、だからあなたたちも、「今日この日から以後」を生きろ、というメッセージです。「今日この日から以後」を生きて、救いを受け取る日を待ち望めというメッセージです。

その救いは、どういうものか。救いは、神に罪ゆるされる、ということです。

神が共に生きてくださる、ということです。

信仰生活は、神が共に生きてくださることを実感して、感謝して生きることです。

その救いは、どのようにやってくるのか。

第一に、それは徹底して、神の御力によってだということです。

21節。ユダの総督ゼルバベルに告げよ。わたしは天と地を揺り動かす。

 

天と地とを動かすことができるのは、神だけです。神の御力だけです。

どういうふうに、神の御力は現わされるのか。

22節に、「倒し」、「砕く」、「覆す」、「倒れる」と物騒な言葉が並んでいます。

要するに、「国々の王座」であれ、「国々の力」であれ、「戦車」であれ、おおよそ、この地上世界で他者を圧倒する力を持つと思われるものも、神の御力の前では無力であるということです。それらは、神に倒されるし、砕かれるし、覆される。

ただ、ポイントは、そこで、神は何をなそうとされているのか、ということです。

倒すことが目的ではありません。砕くことが目的ではありません。

私たちが心を置くのは、神の道です。神の御心です。

丁寧に御言葉の意味を追いかけましょう。

まず一つ目。22節にあります、わたしは国々の王座を倒しの「倒す」と、馬を駆る者もろとも戦車を覆すの「覆す」は元のヘブライ語では同じ言葉です( הפ ך )。

根本的な意味は「変える」です。国々の王座を変える、戦車を変える。

どんなふうに変えるのか。それは、異邦の国々の力を砕く。

「砕く」はそのまま砕く、壊す、という意味です。

が、そこで砕かれるのは「異邦の国々の力」です。この場合の「異邦」は、神に背く、神に敵対するという意味です。異邦人は、神を知らない、神に背く人という意味で用いられます。神を知らない、神に背く、そういう力を砕く。

何のためか。それは、人間が人間の無力さを知って、神を知るためです。

預言者たちはこの「砕く」をよく使います。で、その後で、何度も言われる言葉があります。「お前はわたしが主であることを知るようになる」(エゼ25:7)です。

砕かれるのは、あの国・この国、あの人・この人ではない。

砕かれるのは、神を知らないという力、神に背く心です。

神を知らない、ということを砕いて、「お前はわたしが主であることを知るようになる」。このために、神は、人間の心を砕き、神を知ることへと変えるんです。

先ほどの「倒す」、「覆す」と訳されたところで使われていた言葉が、「変える」という意味であると言いました。変えるのは、神を知る生き方へと変えるんです。

戦車を覆す、戦車を変える。すると、どうなるか。

それは戦争のためではなく、平和のために、街を建設するために使われる。

イザヤ書2章に有名な御言葉があります(4節、5節)。

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。

ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

剣を打ち直して鋤とする。他者を殺める道具を、他者を活かす道具に変える。

他者を貶め、傷つける言葉を、他者を尊び、活かす言葉に変える。

 

そのために、神は私たちを倒しもする。

馬も、馬を駆る者も、互いに味方の剣にかかって倒れる。ここに使われた「倒れる

יר ד 」は、最初にあった「わたしは国々の王座を倒し」の「倒し」とは違う言葉です。

「互いに味方の剣にかかって倒れる」というところで使われている「倒れる」は、ふつう「降る」、「沈む」と訳されます。低くなるという意味です。

この言葉がよく使われるのは、神を主語にして、です。

たとえば、神様がモーセに最初に出会われたときに、「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し」(出エ3:8)と仰った、「降って行き」です。

この言葉は低くなること、謙遜たること、ひいては相手に仕えることを表わす言葉です。互いに味方の剣にかかって倒れるというのは、互いに傷つけあうことではありません。その剣を、神は変えられるんです。人間の心を変えられるんです。

他者を殺めるためのものではなくて、他者を活かすためのものに。

その剣で互いに倒れるというのは、互いに頭を低くして、互いが謙遜になって、愛し合って、仕え合うことです。

この変化、救いの変化を、神は一人ひとりの心にもたらすんだと仰っている。私たちの努力目標ではなく、神の御力がもたらすものとして約束なさっている。

それが、ハガイの指さした未来です。

その神の御力を携えた救い主がやってくるという未来です。

民に求められたことは、この未来を信じて待てということです。

変わらない現実に押しつぶされるのではなく、変わる未来にお前の心を置けと。

神が変えてくださる未来に、期待して、信頼して、心を置く。

それが信仰生活です。神と共に生きるということです。

イスラエルの民が、かつての神殿のような立派な神殿を造られないと心挫けたように、私たちも、あの立派な信仰者のようにはなれないと心挫けることがあります。

でも、そんなの関係ない。

関係ないのは、神が約束してくださっているからです。

神が、私たち一人ひとりの「今日この日から」を見せてくださるからです。

23節です。その日には、と万軍の主は言われる。

「その日」も、預言者のお決まりの言葉遣いです。

救い主が来られるとき、救いが成就するときを指し示す言葉です。

もう神様は先に約束しておられるんです。

私たちの心が変えられたら、救いを与える、そうじゃない。

私たちの生き方が謙遜になったら、救いを与える、そうじゃない。

もう先に、神は約束しておられるんです。

あなたたちは、こういう人間なんだと。救いの中にある人間なんだと。

 

23節に、三つの言葉が畳みかけられています。

特に「わたしはあなたをわたしの印章とする」という言葉に注目しましょう。

印章は、ハンコのことです。ハンコは大切なものです。ですから、古代世界においては指輪にして、王などは肌身離さず持ちました。

つまり、わたしはあなたをわたしの印章とするというのは、神が大切に、絶えず肌身離さず、どこにあっても、共にあるということです。手離しはしないということです。何があっても、あなたを独りにはしないということです。

なぜなら、わたしがあなたを選んだからだ

信仰生活は、私たちが選び取るものではない。

何教の教えが良い、こちらの教えの方がしっくりする。それで選ぶものではない。

聖書が教える信仰生活は、神があなたを迎え入れたから、あなたが選ぶ前に神があなたを選んだから、そのことを認めて、神に選ばれた者として生きなさいというものです。そう万軍の主は言われる。

それが、預言者ハガイが神の言葉において指さした、救われた人間の姿、「今日この日から」の人間の姿でした。神が救いの力で造り出す人間の姿でした。

この救いの人間の姿、この救いの言葉を携えてやって来られたのが、主イエス・キリストです。このハガイの預言は、主イエス・キリストにおいて成就しました。

主イエス・キリストにおいて、あらわされた神の愛があります。

主イエス・キリストにおいて、あらわされた神の救いがあります。

主イエス・キリストにおいて、わたしがあなたを選んだからだ

その約束は確かなものとなりました。事実となりました。

この御言葉をすべての人間が、この御言葉に聞く責任を持ちます。

神の御力に、私たちの心を置く責任を持ちます。心挫けることなく、他者の姿にも自分の姿にもつまづくことなく、神の御力に、自分の心を置くのです。

その心が重なるところに、教会が立ち上がっていきます。

教会は、神があなたを選んだ、そういう人たちの集まりです。

「その日」は、ひとたびもうやって来ました。

「その日」以後を私たちは生きていきます。

なお破れがありましょうとも、わたしがあなたを選んだからだと言われる神がここにいてくださいます。その信仰的な現実に、私たちの心をが置かれるときに、ここに神の栄光は輝きます。いやもう輝いています。

お祈りいたしましょう。