「この日以後、よく心に留めよ」
~~主の言葉は止むことがない~
10 ダレイオスの第二年九月二十四日、預言者ハガイに主の言葉が臨んだ。11 「万軍の主はこう言われる。祭司たちに、律法について尋ねなさい。12 『もし、だれかが、聖別された肉を衣の裾に入れて運んでいて、その裾がパン、煮物、ぶどう酒、油、そのほか何かの食物に触れたとする。これらのものは聖別されるだろうか』と。」祭司たちは答えて、「されない」と言った。13 ハガイは言った。「もし、死体に触れて汚れた人が、これらのものの何かに触れたとする。これらのものは汚れるだろうか。」祭司たちは答えて、「汚れる」と言った。14 ハガイは答えて言った。「わたしにとって、この民はまさにそのようだ。この国はまさにそのようだ、と主は言われる。彼らの手の業もすべてそのようだ。彼らがそこにおいてささげるものは汚れている。15 今日この日から以後、よく心に留めよ。主の神殿の石を積み重ねる前に16 お前たちはどんな状態であったか。人が二十エファの小麦の山に来ても/十エファしか得ず/五十バトのぶどう酒をくもうと酒ぶねに来ても/二十バトしか得なかった。17 わたしは、お前たちを/その手の働きの実もろとも/黒穂病と赤さび病と雹で撃ったが/お前たちのうちだれひとり/わたしに帰らなかった、と主は言われる。18 この日以後、よく心に留めよ。この九月二十四日/主の神殿の基が置かれたこの日から、心に留めよ。19 倉には、まだ種があるか。ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブは/まだ実を結んでいない。しかし、今日この日から、わたしは祝福を与える。」
ローマの信徒への手紙12章1~2節
1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
■本論
この年の岡山教会の年間標語を採りました、ハガイ書を読み進めています。
今日、お読みしたのは、「ダレイオスの第二年九月二十四日」のことです。
ユダヤの暦で「九月二十四日」は、今の私たちの暦にしますと、12月18日です。
どういう時期かと言いますと、小麦の種まきがひと通り終わった頃です。
ですから、ほっとひと息つく。同時に、種はもう蒔いてしまったわけですから、食べるものは、次の収穫のときまでの最低限のものしか残っていません。
しかも、今日の16節にありますように、ここ数年は、干ばつがありましたので、十分な収穫がありませんでした。今年もダメだったらという恐れもあります。
農作業で体は疲れているし、これからの食べていくことを考えると心が疲れるし、という、そういうなかで、神殿の再建にも取り組んでいるのが、この時の状況です。
それは、私たちが日々の生活を送りながら、体に心に疲れを覚えながら、教会を建て上げていくという状況と重なるものです。
その状況のなかで、礼拝のなかで、神の教えを、説教を聞いているわけです。
ダレイオスの第二年九月二十四日、預言者ハガイに主の言葉が臨んだ。
二つのことが言われていました。「祭司たちに、律法について尋ねなさい」と。
一つは、12節です。『もし、だれかが、聖別された肉を衣の裾に入れて運んでいて、その裾がパン、煮物、ぶどう酒、油、そのほか何かの食物に触れたとする。これらのものは聖別されるだろうか』と。答えは「されない」。
どういうことかと言いますと、レビ記6章にある規定が前提となっています。
「聖別された肉」というのは、神様にお献げする、つまり礼拝のときにお献げするお肉のことです。そのお肉を準備するときにも、「主の御前で屠る」とレビ記に記されていますように、礼拝として行われたわけです。それが、「聖別された肉」です。
そのお肉を祭壇に運ぶときに、祭司たちは、「衣の裾」に入れて運びました。
そのことを前提としまして、問いがなされています。
「聖別された肉」を祭司が運ぶ時に、お肉を入れた裾が何かに触れる、それがパンであれ、煮物であれ、ぶどう酒であれ、油であれ、その触れたものは聖別されるのか。
つまり、直接、聖別されてはないものが、裾に触れるという、間接的であるときに、聖なるものは伝播するのか、伝わるのか、という問いです。
祭司たちの答えは、「されない」でした。
つまり、聖なるものは、直接にという以外にはありえない。
神が直接なさること以外にはありえない。間接的にではダメ。
ひとまず、ここで止めて、もう一つの問いを見ます。
13節です。「もし、死体に触れて汚れた人が、これらのものの何かに触れたとする。これらのものは汚れるだろうか。」
これもレビ記11章にある規定です。こちらの方が分かりやすいでしょうか。
そもそも、死体に触れることが汚れているのか、という問題がありますけれども、それはもう主イエス・キリストのご復活以降ないということに留めて、ここで言われていることに集中します。ここで言われていることは、汚れているものに触れた人が、何か他のものを触ったときに、その触ったものは汚れるのか、という問いです。
つまり、汚れは、間接的にでも広がっていくのか、という問いです。
聖なるものは、間接的には広がっていない。神だけが聖なるものとされる。
汚れたものは、間接的にでも広がっていくのか。
祭司たちの答えは、「汚れる」でした。
汚れは、聖なるものと違って、間接的にでも広がっていく。
汚れから汚れというように、際限なく広がっていく。
この問題は理解が分かれるところではありません。解釈の余地はありません。
聖なるものは間接的には伝わらないし、汚れたものは間接的にでも広がる。
あえて、祭司たちに尋ねたのは、その答えをみんなで共有するためです。
そのうえで、ハガイはこう言います。14節です。
彼らの手の業もすべてそのようだ。
彼らがそこにおいてささげるものは汚れている。
「汚れ」というのは、神様との関係を途切れさせるものです。
あなたたちは、神様の祝福から遠くある。その汚れが民の間に広がっている。
その原因は、あなたたちの「彼らの手の業」にある、という。
つまり、今、していること、神殿再建にあるんだと言われている。
神殿再建において、その手の業において、汚れが民の中に際限なく広がっている。
ふた月前、「七月二十一日」に、イスラエルの民は、励まされました。
あなたは、神の宝だから、あなたが神の御言葉に聞き従って、やることが大切だと。
レバノン杉で、金で、青銅で、神殿を造る必要はない。
あなたが神への応答として、与えられた賜物をもって、やるべきことをやる。
そこに、神の栄光は輝く。
そのメッセージに励まされて、民たちは再建の工事にあたりました。
が、ふた月経って、神殿再建の手の業で、汚れが広がっている、という。
何が起こったのか。
工事は続けていました。もう投げ出すことはありませんでした。
18節にあります。この九月二十四日、主の神殿の基が置かれた
神殿再建の手の業は続けられていました。が、おや、と思わせられます。
随分と工事の進みが遅い。ふた月、いや最初の6月24日からですと、三か月。それで、神殿の基礎部分ができた。そういうものなのでしょうか。しかし、この「主の神殿の基」は、エズラ記を見ますと、もう18年前に一回できているものです。もちろん、治すところはあったでしょう。でも、ゼロから造ったのではない。修繕です。
それに、三か月も費やした。あまりに遅いんです。
ちょうどその時期に、種まきをしたりして、忙しかったということもあるでしょう。
ただ、怠けたわけではない、手を抜いたわけでもない。それにしても遅い。
そこには、まあ、このぐらいで良いか、という甘えがあったようなんです。
気のゆるみ、というのでもない。これぐらいかな、という甘えです。
ここで問題にされているのは、その甘えにあらわされた、民の心の有り様です。
イスラエルの民は、自分たちは、神様に選ばれて、神様の宝として、神殿再建に取り組んでいる、と自覚するようになりました。
神様が教えてくださったことは、神様のために働くことそれ自体が尊いということ。
神殿再建という尊い働きに取り組んでいる。聖なる働きに取り組んでいる。
ちょっと進んでいないんだけれども、しかし、聖なる働きの中にあるので、聖なる
神殿に触れているので、自分も聖なるものだ、祝福をいただいている。
その自覚すばらしいことです。神様に信頼して、安心して働く。
が、人間はやっかいなものです。その安心が甘えを生み出していく。
神殿再建に取り組み続けているうちに、その心を問わなくなっていく。
取り組んでいるということが目的化して、どういう心で取り組んでいるのかを真剣に問わなくなっていく。大切なことは、どういう心で、どういう神様への思いのもとに、神殿再建に取り組むか、ということであったはずなんです。
ふた月前に、イスラエルの民は、突きつけられました。
自分たちは小さなことしかできない。
でも、神様はそれで良いと仰った。御言葉に聞き従ってやることであるならば。
それでがんばった。
それが次第に、小さなことでも良い、やっているから良いとなってしまった。
最初は、ああいうこともできる、こういうこともできる、いろんな可能性があるなかで、しかし、今、自分たちにできる最大限のことが、これだ、これだけしかない、でも、これだけはさせていただく、という、その心には、神様への献身があった。
それが、もうそれで十分だと、その小さなところから一歩も外にでなくなる。
だんだんと厚かましくなっていきまして、もうやることやっているんだとなる。
神殿再建という神様の御用をなす。聖なる仕事に取り組んでいるだから、もう自分たちは聖なるものだと。神様からの祝福を受けて当然だと思うようになる。
このイスラエルの民の心の有り様が問われたんです。
神殿再建の工事に取り組むことは、祭司の衣の裾に触れるようなものなんです。
間接的に、神の祝福に触れている。が、それで神の祝福を頂けるわけではない。
神の祝福は、神から直接やって来るものです。
神は、人の心を御覧になるお方です。
どういう心で、その働きに取り組んだのか。
いやいやであるのか、仕方なしにであるのか、人の目を気にしてなのか。
あるいは、神と隣人とへの愛に基づいてであるのか。
その心を神様がご覧になって、その心に聖なるものを、祝福を与えてくださる。
これをして、あれをして、はい、わたしは祝福された者ですというのではない。
お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。
その意味は、神の道に、神の教えに、自分の心を置け、というものでした。
そもそもです。
イスラエルの民は、神の民は、神から直接、聖なる者とされた人たちです。
神に愛され、神に選ばれ、神の救いを知ることへと召された人たちです。
これをして、あれをして、祝福されるという存在では、そもそもない。
神が直接、選び、聖なる者とし、祝福された人たちなんです。
だから、聖なる者として生きなさい、というのが、神の教えです。
この仕事をするから、祝福される。この手の業で聖なる者とされる。
だから、とりあえずやっておくか、というのではない。
もう聖なる人間として、それにふさわしく神に従い、生きること。
祝福は神からしか来ない。その祝福はもう受けている。ならばそのまま生きよと。
しかし、神の民にしても弱い。まあ、これだけやっていたら、神様は喜んでくださるだろうという甘えが芽生えた。毎日、忙しいですから、神の教えに自分の心を置くよりも、とりあえず奉仕をしておくか、祈っておくか、という「お勤め」になる。
それは、神に対する「甘え」です。真心なき、「甘え」です。
それが、「汚れ」と言われています。その「汚れ」が民の間に蔓延したんです。
神様が求められたのは、神殿を造ること、そのことよりも、神殿を造ることを通して、神様の御言葉に聞き従うこと、であったはずです。
心を神様に向けて、生きること。それが神様が根本的に求められたことです。
神殿再建はあくまでも、神様に聞き従うことの手段でした。
神様が求められる核心は、心を神様に向けて生きることです。
が、まあ、こんなものだろうという、神様になめた態度をとる「甘え」が、「汚れ」が民の間に広がったときに、工事は全然、進まなくなりました。
やっつけ仕事にもなっていく。良いものができていかない。
そこに、神様は言葉を贈られたのでした。
今日この日から以後、よく心に留めよ。この日以後、よく心に留めよ。
神様の仰り方は面白い。いつも、あの時、こうしておけばというのはない。
あの時、違う選択肢があったのに、なんでそちらの道を選ばなかったのだという、そういう言い方はなさらない。
今日この日から以後、よく心に留めよ。この日以後、よく心に留めよ。
これが神様の仰り方です。過去のことは事実を提示されるだけです。
神様に心を向けていなかったときに、真心を向けていなかったときにどうだったか。
人が二十エファの小麦の山に来ても、十エファしか得ず、
五十バトのぶどう酒をくもうと酒ぶねに来ても、二十バトしか得なかった。
全然、収穫がなかった。思った分の、期待した分の半分もなかった。
今、神殿の再建工事もまったく同じ状況にあるんです。
ふた月経てば、み月経てば、進んでいるはずの工事がまったく進んでいない。
半分しかいっていない。
民が神様に心を向けるために、神様はいろいろな気づきを与えられました。
お前たちを、その手の働きの実もろとも、黒穂病と赤さび病と雹で撃った
神様に心を向けない手の働きは何をやってもだめ。実らない。無駄になる。
しかし、お前たちのうちだれひとり、わたしに帰らなかった、と主は言われる。
それが、イスラエルの民であった。
しかし、それはもう過ぎ去ったことです。
神様が求められることは、今日この日から以後、よく心に留めよ。
これからです。そこでも、神様は一つの気づきを与えられます。
19節です、倉には、まだ種があるか。
これは反語です。「いや、ない」という答えを導き出す問いです。
倉には、まだ種があるか。いや、ない。
つまり、イスラエルの民は、全部、種をまききったんです。
それで、数か月後、収穫が全然なければ、イスラエルの民は飢えます。
でも、全部、種をまいたんです。
神様への献身も同じです。神様に信頼するということも同じです。
まあ、こんなところでしょう、こんなもんでしょうという、そういうものではない。
その時点での全部です。その時点での最善を尽くすことです。
それが大きかろうが、小さかろうが問題ではない。
人と比べてどうかという問題ではない。
その時点での最善を尽くすということです。最善の心を込めるということです。
それは決して、奉仕をし過ぎて疲れ切るまで、病気になるまでやる、ということではない。献金をして、もう生活費が無くなるまで献げきる、ということではない。
そんなことを神様は求められません。
私たちの喜びがないことを、神様は求められません。
神様は、私たちの喜びと最善をご存知です。私たちの真心をご存知です。
その心を神様に献げる。その心に基づいた働きを献げる。
私たちの喜びのあるところに、神様のご栄光は輝くのです。
過去はもういい。今日この日から以後、よく心に留めよ。
この御言葉に、私たちは聞き従います。
私たちの最善を、善きものを、今日この日から、神様に献げます。それは、今日この日から、わたしは祝福を与える。という神様を信頼しているからです。
神様は今日この日から仰ってくださる。今日この日から、わたしは祝福を与える。
今日の日から、私たちはまた新しく生き始めます。
お祈りをいたしましょう。