「この場所にわたしは平和を与える」
~残りの者は預言者の言葉に耳を傾ける~
1 七月二十一日に、主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。2 「ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者に告げなさい。3 お前たち、残った者のうち/誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか。4 今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと/主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると/万軍の主は言われる。5 ここに、お前たちがエジプトを出たとき/わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。6 まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度/天と地を、海と陸地を揺り動かす。7 諸国の民をことごとく揺り動かし/諸国のすべての民の財宝をもたらし/この神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。 8 銀はわたしのもの、金もわたしのものと/万軍の主は言われる。9 この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると/万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」と/万軍の主は言われる。
テトスへの手紙2章1~9節
11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。15 十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。
■本論
2026年の岡山教会の年間標語を、ハガイ書1章5節、7節にある御言葉から採りました。「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」。
そのために、ハガイ書を読み進めています。
預言者ハガイが立つのはダレイオス王の第二年、すなわち紀元前520年のことです。
それは、エルサレム神殿の再建が始まった年として、歴史に記憶されています。
その始まりの様子がハガイ書には記されています。
今一度、1章7節、8節の御言葉をお読みします。
万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。
山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。
わたしはそれを喜び、栄光を受けると、主は言われる。
この御言葉を聞く、真剣に聞く。真剣に聞くから考える、恐れもする、悩みもする。
が、聞き続けることで、奮い立たせられて、目を開かれて、ゼルバベルたちは、神殿再建の工事へと大きな一歩を踏み出したのでした。
それが、前回、お読みした最後のところ、6月24日のことでした。
今日、お読みしたところは、それからおよそひと月後のこと。
七月二十一日に、主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。
主の言葉が臨んだ、ということは、さっそく、何かしらの問題が発生したようです。
いや、しかし、それは大きな事故が起こったですとか、また、周辺に住む人たちからの妨害があったとか、そういうことではひとまず、なかったようです。
勇気を出せ、勇気を出せ、勇気を出せ、と三度、繰り返されています。
どうやら、またイスラエルの民の心が挫けちゃったようなんです。
神殿再建の工事大変だということは分かっていました。覚悟もしていたでしょう。
しかし、実際にやってみると本当に大変だということと、まったく考えていなかったこと、想定していなかったこともでてくるものです。心が挫けもする。
この時、イスラエルの民にとって、何が一番大変だったのでしょうか。
何が一番、彼らの心を挫けさせたのでしょうか。3節の御言葉です。
お前たち、残った者のうち、誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。
今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか。
これは、神様がこう仰っているというよりは、イスラエルの民がつぶやき合っている。木を運びながら、あるいは休憩時間にこんなことを言い合っている。
そういう言葉を、神様が聞かれて、拾い上げたものだと言われます。
この言葉に、イスラエルの民の心があらわされています。
何がイスラエルの民の心を一番、挫けさせたのでしょうか。
ひと言で言いますならば、どんなに今、がんばっても、かつての、ソロモン時代の神殿の輝きは取り戻せない、ということです。
あんな立派なものは造れない、ということです。
このダレイオス王の第二年、すなわち、紀元前520年に立つ者たちの中には、おそらくハガイ自身がそうであったと言われますけれども、バビロンに壊される前のエルサレム神殿を知っている人たちがいます。実際に見ている人たちがいます。
神殿が破壊されたのは、この地点から66年、67年の前のことです。
年配の人は知っているんです。
しかも、それはその人たちにとっての少年時代、青年時代です。
強烈な印象が残っているんです。
ソロモンが造った神殿は、列王記、歴代誌が伝えるところによりますと、木材は、「レバノン杉、糸杉、百壇の木材」という選りすぐりの最高のものが用いられました。
内装は一面、金で覆われました。祭壇と祭具は青銅で造られました。
柱や壁には荘厳な文様が刻み込まれました。
そういう神殿を記憶している人たちがいます。しかもそれはもう失われたものですから、余計に愛情やら寂しさをのっけて、記憶は美化されている可能性が高い。
人間の記憶はよくできているというか、やっかいということか、良いことも悪いことも実際に起きたことよりも大きなものとして残ることが多々あります。
ちょうど今、わたしは神学校に行っていて、帰りに少し三ノ宮の街を歩くことがあります。すると、しばしば思います。
この道はこんなに狭かったかな。この本屋さんはこんなに狭かったかな。
このラーメン屋さんの味はこんなだったかな。
それで、だいたい思うんです。昔は良かったなあと。
それはわずか10年、20年の間で起こっていることです。
人の記憶は実際のもの、実際に起きた事柄をそのまま覚えているわけではありません。記憶それ自体も変化していきます。
ですから、変化していくんだということを、一定程度、弁えている必要があります。
しかし、それは、そう簡単なことではない。
かつてのエルサレム神殿を知っている人からしますならば、これから造ろうとしている第二神殿は、悲しいぐらいに惨めなもの、神様に申し訳が立たないと思えるものなわけです。木材ひとつでも、ソロモンが造った神殿は最高級のレバノン杉を輸入して用いました。今の神殿は、「山に登り、木を切り出して」です。全然、違うんです。
用意できる資材も違えば、実際に工事にあたれる労働者の数も違う。ケタが違う。
ソロモンの時代に比べて、お金もなければ、人もいない。
一回、全部なくなったんです。かつての神殿を再建することはできない。
それは分かっていたことなんですけれども、実際に工事をやり始めたときに、目に見える形で、その事実を突きつけられたわけです。
問題は、そこで、イスラエルの民はどのように心挫けたか、ということです。
かつての神殿のようには、もう神殿は造れない。それは分かった。
でも、それは、かつての神殿を知らない人たちにとってはさほど大きな事ではない。
見たことない人にとっては、新しい神殿を造るしかない。
問題は、知っている人たち、かつての神殿を見たことがある人たちです。
今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか。
頭では分かっているんですけれども、心がついていきません。
そして、実際に身体を動かすのは、かつての神殿を知らない人たちです。
そこに、分断が起きたんです。
かつての神殿を知っている人たちと、知らない人たちの間で。
知っている人からすれば、なんだこの建物はと。
目に映るのは無に等しいものではないかとなる。
知らない人からすれば、それこそ知ったこちゃない。
そんなに言うんだったら、金や銀を持ってきてくれ、人を連れて来てくれとなる。
そういうことで、実際に神殿再建に取り組んでいる人たちのなから、だったらもうやめると、しんどい思いをしてやっているのに、今、お前たちが見ている様は何かなんて言われたら、気分が悪いから、やってられるか、ということになる。
すると、かつての神殿を知っている人たちも、それだったらやめたらいいと。
どうせ、造ってもたいしたものではないんだからと。
それで、神殿再建はとん挫しかかるわけです。わずか、ひと月で。
そこに、神の言葉が語られたのでした。
勇気を出せ、勇気を出せ、勇気を出せ、と。
この言葉は、イスラエルの民にとって大切な言葉です。
聞きなじみのある訳し方ですと、「強くあれ」です。
「強く雄々しくあれ」。荒れ野の旅を旅する旅が何度も何度も聞いた言葉です。
そのうえで、この文脈で、すなわち神殿再建を巡る文脈において重要なのは、歴代誌にある用いられ方です。歴代誌上28章20節です(旧668頁)。
ダビデがソロモンに神殿建築を託した言葉です。
勇気をもって雄々しく実行せよ。恐れてはならない。おじけてはならない。
ハガイに臨んだ言葉は、このダビデの言葉を思い起こさせるためのものです。
「勇気を出せ」と。そしてダビデが言った「勇気をもって」をなぞっています。
「実行せよ」もそうです。ハガイ書では「働け」と訳されていました。
同じ言葉です。とにかく、「やれ」と。
「わたしはお前たちと共にいる」も、ダビデの言葉です。
わたしの神、神なる主はあなたと共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである。
このように、主の言葉が、ダビデの言葉をなぞる意図は明確です。
ダビデは、神殿建築をソロモンに託しました。
同じように、神が神の民に神殿再建を託したということです。
だから、働けと、だから、やれと、だから、勇気を出せ、と。
勇気を持つことは難しいことです。勇気をもって一歩踏み出すことは難しいことです。けれども、最も難しいことは、それをやり続けるということです。
決心した段階では思い描くことがある。
しかし、実際にやってみると、なかなか上手くいかない、思い通りにならない。
言うのはタダです。なんとでも言えます。
しかし、やり続けることは、失敗も自分の力不足も全部、引き受けるということですから、瞬発力ではなくて継続力を維持するということは本当に難しいことです。
ですから、尊いことでもありません。
一つのことを、何であったって、やり続けることは尊いことです。
とりわけ、神の言葉を聞いて、勇気を出して、一歩踏み出して、やり続けることがあるならば、こんなに尊いことはない。
そのところに、神様は、イスラエルの民を導こうとされています。
そこで、イスラエルの民の考え方が変えられるように、なされる。
つまり、どういう神殿を造ろうとするか、です。
どういう神殿が良い神殿なのか、ということです。
かつての神殿を知っている人は、昔の栄光のときのこの神殿を見たかと言っている。
その人たちは、かつての神殿は神様の栄光に包まれていて、今、どんなにがんばっても、あの栄光は取り戻せないと考え、嘆き、つぶやいている。
しかし、それは本当か、ということです。
レバノン杉で建てられ、金で覆われ、たくさんの財宝を内に抱える神殿が、本当に神の栄光に包まれた神殿であったのか。それにしては、神殿に偶像を並べたり、よく分からない儀式をしたり、挙句の果てには、エゼキエル書には、神様の栄光が神殿から去るという光景が描かれたりしていました(10章)。
根本的に考え方を変えることが、ここでイスラエルの民に求められていることです。
6節で、こう言われています。まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度、天と地を、海と陸地を揺り動かす。
「揺り動かす」というのは神の御力を見せるということです。
天と地とを揺り動かす、そういう神の御力をもって、7節、諸国の民をことごとく揺り動かし、諸国のすべての民の財宝をもたらし、この神殿を栄光で満たす、
神がその御力をもって、この神殿を、かつての神殿に比べれば、みすぼらしいかもしれない。小さいかもしれない。見てくれが悪いかもしれない。しかし、その神殿を栄光で満たす、と言われる。
しかも、9節、この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると、万軍の主は言われる。
神がその御力をもって、財宝をもたらしてくれるんだと、銀も金も神のものであるから、神がその御力をもって、かつての神殿よりもさらなる栄光で満たす。
神殿に必要なのは宝なんです。その宝があるときに、神殿は神の栄光で満たされる。
その宝を、かつての神殿を知っている人たちは、神殿の荘厳さに見ました。
レバノン杉に、金や銀に、青銅に見ました。繁栄に見たんです。
しかし、この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると言われるんです。
つまり、レバノン杉も金も銀も青銅もそれ自体は財宝ではない、宝ではない。
では、何が宝なんでしょうか。
神はその御力をもって何をもたらしてくださるのでしょうか。
それは、そのまま教会の宝でもあります。
教会の宝とは何でしょうか。
主の言葉は教えてくれています。
ここに、お前たちがエジプトを出たとき、わたしがお前たちと結んだ契約がある。
言うまでもなく、シナイ山での契約のことです。
シナイ山で、あの十戒を授かったときのことです。
あのときに、神様が言われていたことがあるんです。
出エジプト記19章です(旧125頁)。19章5節です。
今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
神様にとって宝というのは、人間なんです。
神の言葉に聞き従う人間のことです。その人間が、神の宝なんです。
イスラエルの民は、勇気を出せ、働け、という神の言葉を聞きます。
もし、従って、勇気を出して、もう一度、神殿再建に取り掛かる。
ならば、この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると、万軍の主は言われる。
できばえなんて、どうでもいいんです。
レバノン杉がなくても、金がなくても、銀がなくても、どうでもいいんです。
神の言葉を聞いて、勇気を出して、やる人がいれば、もうそれでいいんです。
その神殿の栄光は、その教会の栄光は、あらゆる時代のものにまさる。
なぜなら、わたしの霊はお前たちの中にとどまっていると言われるからです。
その場所に、神は平和を、平和なる御自身を与えてくださるからです。
私たちはやり続けるんです。御言葉を聞き続ける。御言葉を語り続ける。
清く正しい教会、どうでもいいんです。立派な教会、どうでもいいです。
そこに、あなたという神の言葉を聞く人間がいるならば、その言葉と共に活きようとする人間がいるならば、この教会には神の栄光が満ちている。
それが、働けと言われている、私たちに託された教会のありかたです。
私たちはこの教会を神様に託されている。
ですから、心を一つにして働き続けることです。
お祈りをいたしましょう。