「わたしはあなたたちと共にいる」
~残りの者は預言者の言葉に耳を傾ける~
ハガイ書1章12~15節
12 シャルティエルの子ゼルバベルと、大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者は皆、彼らの神、主が預言者ハガイを遣わされたとき、彼の言葉を通して、彼らの神、主の御声に耳を傾けた。民は主を畏れ敬った。13 主の使者ハガイは、主の派遣に従い、民に告げて言った。「わたしはあなたたちと共にいる、と主は言われる。」14 主が、ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者すべての霊を奮い立たせられたので、彼らは出て行き、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。15 それは六月二十四日のことであった。
フィリピの信徒への手紙2章12~18節
12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、16 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
■本論
2026年の岡山教会の年間標語は、ハガイ書1章5節、7節にある御言葉から採りました。「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」。
その意味は、一つには、自分が歩む道をしっかり確かめろ、ということでした。
もう一つは、その自分の歩む道はどういう道か、ということでした。
その道は、神の道です。神の道を、自分の道として歩め。
預言者ハガイは、廃墟となったエルサレム神殿に立っています。
ハガイが最初に放った言葉は、1章4節でした。
今、お前たちは、この神殿を、廃虚のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか
お前が生きる道の優先順位はどこにあるのか、ということです。
どういう道を、自分の道として歩んでいるのか。
エルサレム神殿は廃墟のまま、自分たちのためにはもう家をこしらえている。
自分の家を建てることがダメなのではありません。それは必要なことです。
しかし、神の事柄をなおざりにしたまま、神の事柄を後回しにしたまま、自分の生活に駆けずり回っている。あくせくしている。それで良いのかと、そこに本当に幸い
はあるのか、というのが神の言葉の問いです。
生活のために歯を食いしばることは尊いことです。ただ、その生活が何のためにあるものであるのかが、忘れられるときに、充足感も幸福感もないままです。
食べても満足することなく、飲んでも、酔うことがない。
金をかせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるようなものだ。
と言われています。
自分の歩む道は決して、自分のためだけに生きる道ではありません。
神の言葉が教える自分の道は、神のために、隣人のために、そういう生き方へと心が向けられるときに、気づけば自分の道になっている、というものです。
自分のしたいことをいくら好き勝手に積み上げても、それは自分の歩む道にはなりません。むしろ、神の言葉に、こう行きなさいと促された道、迫られた道、ちょっときつい道を、誠実に引き受け、実際に歩むときに、初めて、その道は自分の道となります。その道は、神に求められる道ですから、神の道です。合わせて、その道に、私たちの心を置くときに、歩むときに、その道が自分の道、わたしの道になります。
預言者ハガイを通して、神の民が求められたことは「山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ」ということでした。神殿を再建すること、それが、ひとまず、自分のことを置いて、神のために、隣人のために、生きる、その具体的実践として、かつ緊急に必要なこととして、イスラエルの民に示された「自分の歩む道」でした。
預言者ハガイが立っているのは、「ダレイオス王の第二年」です。
紀元前520年です。バビロン捕囚が終わってから18年が経っています。
18年の間、神殿再建は進みませんでした。
預言者ハガイの前で、神の言葉を聞いているのは、「シャルティエルの子ゼルバベル」、「大祭司ヨツァダクの子ヨシュア」、「および民の残りの者」です。
この人たちは、まずエルサレムに帰ることがゆるされた第一陣です。
ですから、フルに18年間、エルサレムの廃墟を見ながら過ごした人たちです。
彼らは、何もしなかったんでしょうか。する気がなかったのでしょうか。
ただ、自分のためだけに生きたのでしょうか。
実はそうではないんです。やろうとはしました。成し遂げたこともあります。
そのことを押さえておくことがハガイ書を深く読むうえで重要なことです。
エズラ記をお開きいただけますでしょうか。旧約聖書の723頁です。
2章に、最初にエルサレムに帰還した人たちのリストが記されています。
その2節に、ゼルバベル、そして、「イエシュア」というヨシュアの名前を見つけることができます。この二人をリーダーにイスラエルの民はエルサレムに帰りました。
エルサレムに着いて、まず彼らがしたことは、何だったでしょうか。
神様への礼拝です。エズラ記3章に記されています。
3章2節。祭司たち、すなわちヨツァダクの子イエシュアとその兄弟たちは、シェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちと共に立ち上がり、イスラエルの神の祭壇を築き、神の人モーセの律法に書き記されているとおり、焼き尽くす献げ物をその上にささげようとした。が、イスラエルの民がバビロンに連れて行かれて、50年ぐらい経っていますから、もうその周辺に住んでいる人たちがいる。ですから、彼らはその地の住民に恐れを抱きながら、それでも、その昔の土台の上に祭壇を築き、その上に焼き尽くす献げ物、朝と夕の焼き尽くす献げ物を主にささげた。
それだけではありません、5節、その後、絶やすことなくささぐべき焼き尽くす献げ物、新月祭、主のすべての聖なる祝祭、主に随意の献げ物をするすべての人のために献げ物をささげた。礼拝のために奉仕をする人、あるいは誰も食べるに困る人がでないように、みんなが献げ物をもって支えた、というんです。
いかがでしょうか。この民は、優先順位がきっちりと付いています。
律法に書かれてあるとおり、神の教えに従って、神様に礼拝を献げる。
隣人が、誰も困ることがないように、献げ物をもって支える。
決して自分勝手に生きたのではない。神のために、隣人のために生きたんです。
神殿再建のことだって、忘れたわけではありません。
その次のところで、神殿の基礎工事に取り掛かっています。成し遂げました。
みんなが泣き叫び、喜びの声をあげたと記されています。
そして、そのまま神殿の本体を建てようとしたんです。
しかし、そこに一つの邪魔が入ります。
一緒に、神殿を建てようという人がやって来ました。
そのとき、ゼルバベルたちはその申し出を断りました。
4章3節。わたしたちの神のために神殿を建てるのは、あなたたちにではなく、わたしたちに託された仕事です。
イスラエルの民には大きな失敗があります。
エルサレム神殿を、いろいろな神々の、いろいろな偶像の展示室にしたこと。
そこに、神の怒りがくだったのでした。
いろいろな背景を持つ人と神殿をつくると、また同じ過ちを繰り返すかもしれない。
それはどうしても避けたい。同じ轍は踏みたくない。
それで、一緒につくろうという申し出を断りますと、その断られた人たちから逆恨みを受けます、4章4節、そこで、その地の住民は、建築に取りかかろうとするユダの民の士気を鈍らせ脅かす一方、ペルシアの王キュロスの存命中からダレイオスの治世まで、参議官を買収して建築計画を挫折させようとした。
それで、神殿再建の工事は止まっちゃうんです。
イスラエルの民が神殿を建てるのは、ペルシアに歯向かうためだなんてことを言われまして、ペルシア王からのストップがかかります。武力をもって圧力をかけられる。
それで、ゼルバベルをはじめ、イスラエルの民の心は折れちゃうわけです。
4章24節。そのときから、エルサレムの神殿の工事は中断されたまま、ペルシアの王ダレイオスの治世第二年にまで及んだ。
これが、ハガイ書の立っている時点です。
決して、ただただ自分勝手に生きてきたわけではないようです。
決して、神を第一とする、隣人を第一とする、その優先順位を忘れたわけではない。
忘れたわけではないんだけれども、しかし、無理だと、やっても無理だという、その自分の考えに押しつぶされてしまうようになりました。あるいは、一度やって、やろうとしてつぶされたという経験に押しつぶされるようになりました。そうして、おおよそ自分の頭で考える限り、うまくいきそうにもない、諦めたわけではないけれども、今ではないんだろうという自分の想像力に押しつぶされるようになりました。
いろいろと経験して、臆病になってしまった。
神の言葉に従って生きること、自分の心を預ける生きることが大切であることは分かっているんです。でも、挫折した経験があるので、その状況が変わっていないように思えるので、もう一回、神の言葉の中に心を置くことが恐くなっている。
それが、18年という時を経たイスラエルの民です。
そういうイスラエルの民に、預言者ハガイは神の言葉を告げたんです。
「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」。
もう一回、神の道を歩め、神の言葉の中に自分の心を預けてみろ、と。
つまり、優先すべきは自分の経験ではない。
それも大切なんですけれども、それよりも大切なのは今、与えられる神の言葉です。
その言葉を、イスラエルの民は聞きました。
今日、お読みした12節に、「彼らの神、主の御声に耳を傾けた」とあります。
「耳を聞いた」、「聞いた」という言葉ですけれども、その言葉が、もとのヘブライ語では、最初に置かれています。
とにかく、イスラエルの民は聞いたんだ、ということが記されています。
聞くことが大切なんです。神の言葉を聞くことから、すべてのことが始まります。
聞け、イスラエルよ、神の民は何度も、何度も呼びかけられてきました。
聞くことから、すべてが始まるからです。
しかも、その「聞く」という言葉のなかには、ヘブライ語の「シェマー」という単語のなかには、「従う」という意味も含み込まれています。
聞け、イスラエルよ、という言葉で求められていたことは、聞き従え、イスラエルよ、ということです。
神の言葉には、聞いて、従うことが求められます。
ですから、神の言葉は恐ろしいです。わたしの生き方を変えますから。神の言葉に聞き従うということは、それまでとは違う生き方をするということですから。
ですから、民は畏れ敬った。
この意味も正確に押さえなければいけません。ヘブライ語に、「畏怖」というときの「畏れ」と、「恐怖」というときの「恐れ」に区別はありません( יר א )。
日本語の場合には使い分けますけれども、ヘブライ語は一つの単語です。
この単語の根っこにあるのは、恐怖の意味の恐れです。
そこで、イスラエルの民に突きつけられたのは、恐怖です。
自分たちができないと思っていることを、やりなさいと言っているわけですから。
この道は歩めないと思っている道を、自分の道として歩めと言われているわけですから。新しい聖書の翻訳はいずれも、ここを「恐怖」という意味で訳しています。
恐れたんです。イスラエルの民は。神の言葉を聞いて恐れたんです。
しかし、それだけ、神の言葉に畏怖の念を抱いて、なめた態度を取らずに、聞いたということです。やっぱり、優先順位がついているんです。
やらなきゃいけないことは分かっている。やりたいとも思っている。
でも恐い。ですから、神の言葉が重ねられます。
主の使者ハガイは、主の派遣に従い、民に告げて言った。「わたしはあなたたちと共にいる、と主は言われる。」
注解者が口をそろえて指摘することは、この言葉には、イザヤ書43章5節の響きがあるということです。今日、招きの言葉でお読みした御言葉です。
恐れるな、わたしはあなたたちと共にいる。
神の言葉を聞いて、恐れるということは、神の民のしるしです。
それだけ、真剣に聞いているということですから。神を恐れることができる、ということは、神の民がちゃんと神の民として生きているしるしです。
神の言葉を真剣に聴いたら、恐いんです。
でも、その言葉を聞く、従う、そのように生きる。
すると、その道が自分の道になる。神の道が自分の道になる。
どうなるか分からないという意味では恐い。
しかし、信じていいことは、神は善き方だということです。
神は、私たちを不幸にはしません。悲しませません。
こうやって生きろという道は、苦労するかもしれませんけれども、しんどい思いするかもしれませんけれども、それは、私たちを不幸にする道ではありません。
神がわたしはあなたたちと共にいる、と言われる道ですから、悪い道のはずがない。
良い道なんです。神が導き、共にいてくださる道ですから。
ですから、恐れの中に自分を明け渡すのではない。
恐れるな、わたしはあなたたちと共にいるという神の言葉に自分を明け渡す。
その言葉を聞いた、イスラエルの民はどうなったか。
主が、ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者すべての霊を奮い立たせられた……
「奮い立たせられた」、これも重要な御言葉です。
言葉本来の意味は、「目覚める」です。
彼らは目覚めさせられたんです。目覚めさせられたので、彼らは出て行き、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。取り掛かかれたんです。
何に目覚めさせられたのか。
自分の道を歩むときには、神が共にいてくださる、ということをです。
そのことが信じられたんです。このわたしが歩む道には神が共にいてくださると。
イスラエルの民は、18年間、決して不真面目に生きてきたわけではありません。
けれども、いろいろな経験をすることで、自分の歩む道に、神が共にいてくださる、ということがちょっと見えなくなった。ですから、臆病になった。
臆病になって、チャレンジできなくなっていた。
ですから、「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」。
その道には、わたしはあなたたちと共にいるという神がいてくださる。
イスラエルの民は、その言葉を聞きました。目を開かれました。
恐かった。けれども、聞いたので、奮い立たされました。
そうして、神殿再建にもう一度、チャレンジしていくことになります。
それは六月二十四日のことであったと記されています。
預言者ハガイの言葉を聞いたのは、六月一日ですから、少し時間がかかりました。
目覚めても、まだ、恐さは残るんです。すぐにみんなで動けなかった。
私たちの歩みも同じです。
パウロも記しています。恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
神の言葉を真剣に聞いたならば、恐ろしいんです。
でも、その言葉に従って生きるときに、神の道が、自分の道となります。
「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」。
心が目覚めます。わたしはあなたたちと共にいる。
そこに、自分の歩む道、私たちの歩む道があります。
お祈りをいたしましょう。